図版1:バレエ『ナイチンゲール』で踊るグリジとペロー
☆運命の出会い【そのニ】 ミューズ、カルロッタ・グリジ☆
さて、いよいよジュール・ペローと私、カルロッタ・グリジの運命の出会いが訪れます。フランスとイタリアで生を受けた男女が、全く違う人生を歩む中で遭遇するなんて奇跡のように感じられますが、人それぞれの日常こそ奇跡の連続なのかもしれません。
いつの時代でも、振付家にとって創作意欲を刺激してくれるミューズ(女神)のような存在がいると思います。振付家ジュール・ペローにとって、私はミューズとして彼の創作活動の原動力となったのでした。
ペローは、私と出会う以前から女王のようにバレエ界に君臨するマリー・タリオーニ、そのライバル、ファニー・エルスラーをはじめ、ファニー・チェリート、ルシール・グランなど、この時代を代表するバレリーナたちとも仕事をしました。
私が他のバレリーナと違うところは、ペロー自身が私の才能を発見し、若い頃から育て上げたということでしょう。私は指導を受け、生活を共にする中で彼の踊りに対する考え方を身につけ、ペローの理想とする作品の世界を実現できたのかもしれません。
図版2:ナポリのサン・カルロ歌劇場
芸術の神様は、私とペローをナポリのサン・カルロ歌劇場に導きました。この劇場は1737年に開場し、この時代を代表する音楽の殿堂でした。ロッシーニやドニゼッティなど、数々の名作曲家たちがこの劇場で経験を積み、たくさんのオペラが誕生したのです。
ペローのパリ・オペラ座との契約が切れる頃、私はちょうどイタリア各地を巡業していました。体調を崩して以来、ダンサーの道に進むか歌手の道に進むかを決めかねていた頃でした。
1835年9月、この劇場でドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』が初演されました。私もそのオペラに出演することができ、歌も歌いました。その舞台をペローが見ていたのです。彼は、私に生徒になるように強く誘ってくれました。「踊りなさい、グリジ。グリジという名の歌手は、もうすでにいるではないか!」と。
数ヶ月の訓練の後、1836年からは公私ともにパートナーとして、私の才能を試す旅が始まりました。ロンドンを皮切りに、ウィーン、ミュンヘン、ミラノ、ナポリなどで成功を収め、私は踊りに磨きをかけて行きました。
図版1をご覧ください。これは、ペローと私がロンドンのキングズ劇場(1837年からハー・マジェスティーズ劇場と改称)で1836年の4月に『ナイチンゲール』というバレエ作品に出演した時の版画です。真ん中で踊っている二人の男女が見えますね。少しリフトされている女性が私で右横の男性がペローです。この作品で踊ったパ・ド・ドゥが、「踊るグリジ」のデビュー作となり、ロンドンの各紙面で話題になりました。
でも、私たちの目指す場所は、もちろんパリでした。数年間のヨーロッパ巡業の後、1840年に新人バレリーナ、カルロッタ・グリジのパリ・デビューの準備が整いました。ルネサンス劇場でのオペラ・バレエ『ル・ジンガロ』で、ペローと私はパリで初共演しました。ペローは男性ダンサーの価値を観衆に認めさせ、私もこの成功をきっかけにオペラ座への道が拓かれたのです。
図版3:『パキータ』を踊るグリジ
☆それぞれの道へ☆
私は、1841年にパリ・オペラ座との契約が決まりました。主演した有名な『ジゼル』によって、パリ・オペラ座でのタリオーニとエルスラーの後継者となったのです。本当は恋人のペローも一緒にオペラ座に振付家として入団したかったのでしたが、その望みは絶たれました。ペローは、ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場を活動拠点にすることになりました。
1842年、私とペローはロンドンで『ジゼル』を初演しました。私がジゼルを踊り、はじめてペローはアルブレヒトを踊りました。この配役はペローにとって理想的なものだったことでしょう。でも、私がパリ・オペラ座と契約したことで、私たちの私的な関係は微妙に変わってゆきました。
ペローは、ロンドンで『エスメラルダ』や『パ・ド・カトル』などを創作し、私以外のバレリーナ、ファニー・チェリートやファニー・エルスラーとの仕事が増えてゆきました。私もオペラ座で、ジャン・コラリやジョセフ・マジリエなど別の振付家の作品を踊ることが多くなりました。
マジリエ振付の1846年にパリ・オペラ座で初演された『パキータ』は、この時代に作られたもので、皆さんにもお馴染みの作品となっているものの一つでしょう。
図版4:ペロー振付『オンディーヌ』で「影の踊り」を踊るファニー・チェリート
ペローはロンドンでのシーズンの後、1848年からロシアのサンクト・ペテルブルクの帝室劇場のプリンシパル・ダンサーとして契約します。そして、1851年からはバレエ・マスターを務め、振付家として精力的に作品を発表しました。私も1849年にパリ・オペラ座での活動を終え、バレリーナとしての最後の時期をサンクト・ペテルブルクの帝室劇場で過ごし、ペローの作品を踊りました。
私生活において、ペローは、ロシア人のバレリーナと結婚し家庭的には安定した生活を送っていたようです。しかし、ロシアでの仕事上の人間関係などに嫌気がさし、1861年に家族とともにパリに戻りました。
図版5:1872年オペラ座で指導するルイ・メラント
☆バレエに尽くした生涯☆
パリに戻って引退後も、ペローはバレエ芸術発展のための研究を続けていました。18世紀のバレエの改革者ジャン=ジョルジュ・ノヴェールの著作を研究し、さまざまな芸術家たちと交流を深め、低迷するフランス・バレエ界でバレエ芸術に多大な貢献をしたと思います。
ペローの作品で後世に残っているものが少ないのはとても残念なことです。第4回でもお話ししましたが、ペローはロシアからパリに戻ってから、振付家として経験の浅かったオペラ座のルイ・メラントを助けていました。メラントとペローは、家族ぐるみの付き合いでもあり、バレエについても良く話し合いをしていました。
皆さんは、パリ・オペラ座バレエ学校のレパートリーにもなっている『二羽の鳩』はご存じでしょうか。これはメラントの1886年の作品で、この『二羽の鳩』には、ペローのバレエに対する考え方や作風が色濃く反映されていると考えられます。
70歳を過ぎてもペローはバレエ指導に携わり、優れた才能を見出し、生徒たちの成長を見守り続け、1892年に82歳でバレエ芸術に献身した人生に幕を降ろしたのでした。
図版6:メラント振付のバレエ『二羽の鳩』の版画
次回は、初代アルブレヒト、パリ・オペラ座を代表するプリンシパル・ダンサーのリュシアン・プティパをご紹介したいと思います。ロシアでチャイコフスキーと一緒にバレエを作ったマリウス・プティパのお兄さんのお話です。お楽しみに!
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図版1: バレエ『ナイチンゲール』で踊るペロー(24歳)とグリジ(15歳)
作者: T.H.Jones
制作年: 1836年
所蔵: Bibliotheque de la danse Vincent- Warren Canada
図版2: 1906年ころのサン・カルロ歌劇場の写真カード
撮影: Giorgio Sommer
所蔵: 不明
図版3: ジョセフ・マジリエ振付『パキータ』を踊るグリジ
作者: H.Valentin
制作年: 1847年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ
図版4: ジュール・ペロー振付『オンディーヌ』の「影の踊り」を踊るファニー・チュリート
作者: Turner.G.A.
制作年: 1843年
所蔵: ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
図版5: オペラ座でバレリーナを指導するルイ・メラント
作者: エドガー・ドガ
制作年: 1872年
所蔵: オルセー美術館 パリ
(1986年からオルセー美術館、1911年から1986年まではルーヴル美術館)
図版6: バレエ『二羽の鳩』の版画
作者: ジュール・シェレ
制作年: 1894年〜1919年
所蔵: リヨン市立図書館 フランス
1886年のリトグラフが日本のサントリーミュージアム(天保山)に所蔵されています。
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