図版1:『ラ・シルフィード』第二幕で空気の精を踊るマリー・タリオーニ
☆ようこそ、バレエ史の世界へ☆
皆さん、はじめまして!マリー・タリオーニです。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、1830年ころからヨーロッパで流行した、ロマンティック・バレエの世界で有名になったバレリーナの一人です。イタリア人振付家の父とスウェーデン人の母を両親に持ち、パリ・オペラ座を中心に、ヨーロッパ各地、ロシアでも踊りました。そうそう、弟がポールと言って、オペラ座でも一緒に踊っていました。
今、皆さんが見ている絵は、有名な『ラ・シルフィード』の第二幕で、空気の精を演じ
ている私です。父フィリッポが振り付け、1832年にパリ・オペラ座で初演しました。この作品のおかげで、私は一躍ロマンティック・バレエの代名詞のようなバレリーナになったのです。
このロマンティック・バレエって、どんなバレエなの?と思った方もいるでしょうね。
あとで説明しますので、ご安心を。もう少し私の自己紹介をさせてください。
私のバレリーナ人生は、それほど順風満帆ではありませんでした。私はとても痩せていて、猫背で、手が長すぎて、バレリーナには縁遠い体型でした。見かねた父が、手首を交差させるポーズを考えて、気絶しそうな厳しいレッスンで筋力を鍛えて、なんとか1822年、ウィーンでのデビューに間に合ったのです。
皆さんの生きている21世紀ですと、「痩せっぽち」とか「手が長過ぎる」って、バレリ
ーナにとっては有利な感じがすると思いますが、私達の時代にはそれは欠点でした。それに、私は感情表現に乏しかったので、父は私の性質を逆手にとって、「空気の精」を創り上げたのです。
もう少し後に生まれて来るロシアのバレリーナ、アンナ・パヴロワも、体力がなくて、痩せすぎで、肝油を飲まされるのが本当に嫌だった、という有名な話があります。
歴史的に有名になったバレリーナやダンサーのほとんどは、努力して自分の欠点を長所に変える才能があったのかもしれませんね。
図版2:1845年の『パ・ド・カトル』ロンドン初演
左からカルロッタ・グリジ、マリー・タリオーニ、ルシール・グラーン、ファニー・チェリート、
振付は、ジュール・ペロー
図版3:1836年ころ 自作の「ラ・カチューシャ」を踊るファニー・エルスラー
☆火花散るバレリーナたちの華麗な闘い☆
さて、私のお話はこの辺にして、ロマンティック・バレエの時代は、華々しいバレリーナの時代と言っても良いほど、個性豊かなバレリーナたちが活躍しました。
『ジゼル』を初演した踊る女優カルロッタ・グリジ、私の強力なライバルだったファニー・エルスラー、『コッペリア』を振り付けたサン=レオンの夫人だったファニー・チェリートや、デンマークを代表する振付家ブルノンヴィルのパートナーだったルシール・グラーンなどが登場しました。
ブルジョワジーと呼ばれるお金持ちのファンがバレリーナを支える会員制度ができました。有名な作家テオフィル・ゴーチエが、批評やバレエの台本を書き、ジュール・ペローなどの優れた振付家によって、数々の名作も誕生した時代でした。
美しい女性たちが集まるところには、ワイドショーのようなお話がつきもので、ちょうど新聞や雑誌なども発行されたこともあり、私もすっかりと巻き込まれてしまいました。
カスタネットを打ちながら情熱的に踊るファニー・エルスラーと、全く対照的で体重を感じさせない妖精を踊る私のライバル関係は、パリ・オペラ座の劇場支配人で経営者となったルイ・ヴェロンによって仕組まれたものでした。彼は、スターシステムと言って、個性の違うバレリーナを競い合わせることで、お客集めのための話題を作り、世の中に私達を売り込んだのです。
もう一つの良い例が、『パ・ド・カトル』です。1845年にロンドンのハー・マジェスティーズ・シアターの劇場支配人ベンジャミン・ラムリーが、当代きってのバレリーナ四人を集めて、共演させようと考えました。私マリー・タリオーニ、カルロッタ・グリジ、ファニー・チェリート、ルシール・グラーンです。振付は、ジュール・ペローが担当しました。プライドの高いバレリーナが集まると、何かともめごとが起きるもので、ソロを踊る順番を巡って、グリジとチェリートが喧嘩を始めたのです。
『パ・ド・カトル』は、オープニングは四人で踊り、間にソロがそれぞれ入り、最後にまた四人でコーダを踊るという構成の作品でした。
私は、最年長で他の三人より10歳以上も年上で、実績もあったので、最後のトリを務めるのはすぐに決まりました。一番若いグラーン(と言っても、グリジと約1ヶ月違い)が気を利かせて、最初に踊ることになりました。
振付家のペローも困っていたところ、支配人のラムリーが「年齢順でどう?」と提案しまして、結局、年下のグリジが先に踊ることになったのです。
そんなこんなで、四人の花形バレリーナの競演は話題を呼び、興行的にも大成功を収めました。それぞれファンたちの「私のお気に入りのバレリーナが一番!」みたいな競い合いも想像できますね。いつの時代も、国が変わっても、同じことが繰り返されるものです。
さて、男性の皆さん!どうぞ安心してください。「男性舞踊手の時代」も、ロマンティック・バレエの少し前の時代にありましたし、皆さんの時代は、男性ダンサーの時代と言ってもいいほど、たくさんの魅力的な男性ダンサーが活躍しているようですね。
もともと、バレエの身体訓練は、男性のために整えられたと言っても良く、それは17世紀のルイ14世時代の資料に読み取ることができます。このことは、またの機会にゆっくりとお話しいたします。つづく
次回も、ロマンティック・バレエ時代の別の作品や舞台技術、新しい演出法などについて、お話を続けますの、どうぞお楽しみに☆彡
ご質問、ご意見もお待ちしています。
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【豆知識】ロマンティック・バレエってどんなバレエ?
1830年頃からヨーロッパでは、あらゆる芸術の分野(演劇、文学、音楽、美術など)で、「ロマン主義」という動きが生まれ、その特徴がバレエに受け入れられたものを「ロマンティク・バレエ」と呼び、だいたい1870年くらいまで(研究者によって見解が違いますが)と考えてよいでしょう。
ただし、マリー・タリオーニが生きた時代に、マリー自身が、「私は、ロマンティック・バレエを踊っているのよ」とは言わなかったでしょう。こういう呼び方は、たいてい後世の人が、過去の様式や時代を分類して考えるために付けたと言えます。
ロマンティック・バレエの特徴として、物語の主人公が、庶民や農民など普通の生活者たちということです。その前の王侯貴族が国を支配していた時代には、神々や英雄が主人公の物語が主流でした。
そして、作品は現実と非現実のニつの世界から構成され、東洋(インド、アラビア)などの異国や神秘的なものへの憧れ、現実逃避など、人間の理性では処理しきれないことを多くテーマにしています。
具体的な例を上げると、代表的な『ラ・シルフィード』は、舞台がスコットランドです。当時のパリから見ると、スコットランドは、「幻想的で遠くて異国情緒にあふれた地」でした。第一幕が、現実の世界、第二幕が、人間と妖精が恋に落ちる非現実的な世界です。
この二部構成は、『ジゼル』にも通じ、「非現実的な世界」を「白いバレエ(バレエ・ブラン)」として描写しているのも特徴の一つです。
異国趣味に溢れたものとしては、インドを題材にした『バヤデール』やギリシャを題材にした『海賊』、スペインを舞台にした『パキータ』なども、このロマン主義の時代に作られました。この伝統は、19世紀後半にバレエの中心地が帝政ロシアに移ってからも、偉大な振付家マリウス・プティパの大作の中に受け継がれてゆくのです。
<<図版1>>
『ラ・シルフィード』第二幕
空気の精を踊るマリー・タリオーニ
作者:Alfred Edward Chalon
制作年:1845年
所蔵:ヴィトリア&アルバート博物館 ロンドン
<<図版2>>
『パ・ド・カトル』1845
左からカルロッタ・グリジ、マリー・タリオーニ、ルシール・グラーン、ファニー・チェリート
作者:Alfred Edward Chalon
製作年:1845年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
<<図版3>>
1836年ころ 自作の「ラ・カチューシャ」を踊るファニー・エルスラー
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
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