図版1:『エスメラルダ』を演じるカルロッタ・グリジ
ボンジュール!エスメラルダに扮して、ふたたびカルロッタ・グリジです。『ジゼル』初演から3年後の姿です。この頃の私は、パリ・オペラ座に所属しながらロンドンでも活動の場を広げ、バレリーナとして名声を得ていまいた。少しはパリでの刺激を受けてあか抜けたでしょうか。
私の横でひざまづいている男性がいますね。この人は私をパリ・オペラ座での『ジゼル』初演に導いた重要人物で、この『エスメラルダ』の振付家でもあります。
今回から数回に分けて、名作『ジゼル』の誕生を支えた人たちについて、皆さんにご紹介したいと思います。
図版2:1871年から1874年ころのオペラ座のバレリーナたち
それでは、図版2の絵を見てください。この絵を見たことがある人も多いのではないでしょうか。現在、パリのオルセー美術館に所蔵されている踊り子たちの絵で、有名な画家エドガー・ドガが描いたものです。
これは、1870年代普仏戦争後のオペラ座の稽古場の様子です。皆さんがイメージするガルニエ宮のオペラ座(1875年開場)ではなく、火事で焼ける前のル・ペルティエ通りにあったオペラ座です。レッスンが終わって、くつろいでいるバレリーナたちの雰囲気が伝わってきます。
稽古場の中央に老紳士がいますね。この人は誰でしょう。彼こそ、私の元恋人でバレリーナとして育て上げてくれたジュール・ペローです。図版1でひざまづいている男性のおよそ30年後の姿ということです。
ペローとドガは親しかったこともあり、ドガは稽古場に入り、踊り子たちの日常の姿を描けたのでした。この絵のペローを見ると、現役を引退してからも、踊りへの情熱を持ち続けているように感じられます。厳しい視線をバレリーナたちに向け、指導していたことでしょう。
ペローは、結局オペラ座の公式の振付家にはなれませんでしたが、バレエ史上重要な役割を果たしました。デンマークのバレエの基礎を築いたオーギュスト・ブルノンヴィルに影響を与え、1870年代、活気のなくなったオペラ座の振付家に就任したルイ・メラントを支えたのもペローでした。
そこで、『ジゼル』、『エスメラルダ』、『パ・ド・カトル』などの名作を残してはいますが、あまり語られることないペローの人生について、少し詳しくお話したいと思いますので、どうぞお付き合いください。
図版3:『ジンガロ』を踊るジュール・ペロー(1841年ころ)
☆「男シルフィード」と呼ばれたジュール・ペロー☆
ここで図版3をご覧ください。これは、ペローが31歳ころの姿で、ダンサーとして最盛期の頃でしょうか。ここに描かれているペローが踊る『ル・ジンガロ(イタリア語でジプシーの意味)』というオペラ・バレエ(歌と踊りで構成されている当時の一般的な作風)は、私とペローにとって記念すべき作品です。この『ル・ジンガロ』で、私たちは1840年にルネサンス劇場でパリデビューを果たし、大成功を収めました。その時の観客には、名だたる批評家やオペラ座の若い踊り子たちもいたようです。
その批評家の中に、後に『ジゼル』の台本を書いた作家のテオフィル・ゴーチエがいました。彼はめったに男性ダンサーを褒めないのですが、この公演を見て興奮した様子で、次のようにペローのことを書いています。
「ペローは決してハンサムではない。それどころかひどく醜いと言ってよい。・・・しかし、私はペローの脚については黙ってはいられない。・・・足首と膝関節は、並外れてほっそりしていて、どこか女性的に丸みを帯びた脚を女性的すぎないようにしている。柔らかでしかも強く、優雅かつしなやかな脚である。」と言っています。なかなか良く観察していますよね。そして、ペローの跳躍の素晴らしさを評して「男シルフィード」と表現したのでした。
☆ジュール・ペローの生い立ち〜役者見習いからの舞台生活☆
では、ジュール・ペローは、どのようにしてダンサーの道を歩みはじめたのでしょう。ペローは、1810年8月18日、フランスのリヨンという街で生まれました。父親が劇場の道具方主任をしていて、父の望みで9歳ころにダンスをはじめたと言われています。
ペローが一番最初にあこがれたのは、シャルル・マズリエという道化役者でした。ペローは、マズリエの舞台を見て、アクロバティックな身振りや動きを身につけ、自分自身も舞台で踊るようになっていました。しかし、地方都市での活動には、限界がありました。
ペローは、わずか12歳でパリに行き、まず大衆向けの劇場ゲテ座で踊り、次にポルト=サン=マルタン劇場で、身体の動きだけではなく、マイムや演技の表現などに磨きをかけてゆきます。観客も、ペローのエネルギーに満ちたパフォーマンスに感銘を受けていました。
2つの特徴の違う劇場〜大衆的なゲテ座ともう少し客層が洗練されたポルト=サン=マルタン劇場〜での見習い修業時代に、ペローはさまざまな客層のニーズに応える芸域を広げたのでした。特にポルト=サン=マルタン劇場では、実験的な作品づくりができ、また、劇場運営や制作についても学びました。
図版4:オーギュスト・ヴェストリスの肖像画
☆運命の出会い【その一】 バレエの師オーギュスト・ヴェストリス☆
ペローはもっと自分の技術を高めようと思い、仕事の空き時間を使って、バレエの稽古をはじめます。かのナポレオンをも魅了したオペラ座の名男性ダンサー、オーギュスト・ヴェストリスが引退後バレエの指導をしていたのです。ペローは彼の元でバレエの基礎を学びました。
指導したヴェストリスもペローの才能を見抜き、なんとかパリ・オペラ座への道を拓こうとしました。しかし、この頃のパリ・オペラ座に君臨する男性ダンサーたちは、エレガントで美形というのが特徴でした。弟子のペローはというと、先ほどのゴーチエの表現が物語るように、容姿では勝負できませんでした。
そこで、ヴェストリスは、ペローの軽やかな風のような身のこなし、跳躍を活かした「ペロー・スタイル」を提案したのです。それがどのようなスタイルであったのか。ペローと同様、ロマンティック・バレエのダンサーで振付家の一人、デンマーク出身のオーギュスト・ブルノンヴィルが伝えています。彼は、ペローと一緒にヴェストリスの稽古を受けていて、ペローと並ぶヴェストリスの有能なもう一人の弟子でした。
「絶対に観客に容姿をじっとみられないように、舞台の上を飛び回って動くんだ!」とヴェストリスは、ペローにアドヴァイスをしていたようです。
そして、1830年に念願のパリ・オペラ座デビューがやってきます。おそらく、フランスで踊るダンサーならだれでも、オペラ座で踊ることを望んだことでしょう。オペラ座では、ペローはマリー・タリオーニのパートナーとして踊るようになり、ダンサーとしての地位を確実にしてゆきました。
しかし、だんだんとマリーは、人気が高まるペローにライバル心を抱くようになり、態度を変えていったのです。このことが、オペラ座でのペローの立場にどう影響したかはわかりません。
ペローは、ダンサーとしての正当な評価を得たいと思い、1835年オペラ座を去ります。その後、ナポリ、ロンドン、ミラノ、ウィーン、ミュンヘンを巡り、各地で成功を収めたのでした。
さて、いよいよクライマックス!ペローと私、カルロッタ・グリジの、お互いの人生を変える出会いがやってきますが、次回のお楽しみということにいたしましょう。
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図版1:『エスメラルダ』を踊るカルロッタ・グリジとジュール・ペロー
作者:Jules Bouvier
制作年:1844年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
図版2:1871年から1874年の間オペラ座でバレリーナを指導するジュール・ペロー
作者:エドガー・ドガ
制作年:1875年
所蔵:オルセー美術館 パリ
(1986年からオルセー美術館、1911年から1986年まではルーヴル美術館)
図版3:『ル・ジンガロ』を踊るジュール・ペロー
作者:Alexandre Lacauchie
制作年:1841年ころ
所蔵:Bibliotheque de la danse Vincent Warren
こちらの図書館に所蔵されています。
http://esbq.asp.visard.ca/Record.htm?record=10104857124929220399&lang=EN
図版4:オーギュスト・ヴェストリスの肖像画
作者:Thomas Gainsborough
制作年:1781年
所蔵:テート・ギャラリー ロンドン
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