2014年04月27日

第4回

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図版1:『エスメラルダ』を演じるカルロッタ・グリジ

 ボンジュール!エスメラルダに扮して、ふたたびカルロッタ・グリジです。『ジゼル』初演から3年後の姿です。この頃の私は、パリ・オペラ座に所属しながらロンドンでも活動の場を広げ、バレリーナとして名声を得ていまいた。少しはパリでの刺激を受けてあか抜けたでしょうか。
 私の横でひざまづいている男性がいますね。この人は私をパリ・オペラ座での『ジゼル』初演に導いた重要人物で、この『エスメラルダ』の振付家でもあります。
 今回から数回に分けて、名作『ジゼル』の誕生を支えた人たちについて、皆さんにご紹介したいと思います。

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図版2:1871年から1874年ころのオペラ座のバレリーナたち

 それでは、図版2の絵を見てください。この絵を見たことがある人も多いのではないでしょうか。現在、パリのオルセー美術館に所蔵されている踊り子たちの絵で、有名な画家エドガー・ドガが描いたものです。
 これは、1870年代普仏戦争後のオペラ座の稽古場の様子です。皆さんがイメージするガルニエ宮のオペラ座(1875年開場)ではなく、火事で焼ける前のル・ペルティエ通りにあったオペラ座です。レッスンが終わって、くつろいでいるバレリーナたちの雰囲気が伝わってきます。
 稽古場の中央に老紳士がいますね。この人は誰でしょう。彼こそ、私の元恋人でバレリーナとして育て上げてくれたジュール・ペローです。図版1でひざまづいている男性のおよそ30年後の姿ということです。
 ペローとドガは親しかったこともあり、ドガは稽古場に入り、踊り子たちの日常の姿を描けたのでした。この絵のペローを見ると、現役を引退してからも、踊りへの情熱を持ち続けているように感じられます。厳しい視線をバレリーナたちに向け、指導していたことでしょう。
 ペローは、結局オペラ座の公式の振付家にはなれませんでしたが、バレエ史上重要な役割を果たしました。デンマークのバレエの基礎を築いたオーギュスト・ブルノンヴィルに影響を与え、1870年代、活気のなくなったオペラ座の振付家に就任したルイ・メラントを支えたのもペローでした。
 そこで、『ジゼル』、『エスメラルダ』、『パ・ド・カトル』などの名作を残してはいますが、あまり語られることないペローの人生について、少し詳しくお話したいと思いますので、どうぞお付き合いください。

図版3:ペロー ジンガロ .jpg
図版3:『ジンガロ』を踊るジュール・ペロー(1841年ころ)

☆「男シルフィード」と呼ばれたジュール・ペロー☆
 ここで図版3をご覧ください。これは、ペローが31歳ころの姿で、ダンサーとして最盛期の頃でしょうか。ここに描かれているペローが踊る『ル・ジンガロ(イタリア語でジプシーの意味)』というオペラ・バレエ(歌と踊りで構成されている当時の一般的な作風)は、私とペローにとって記念すべき作品です。この『ル・ジンガロ』で、私たちは1840年にルネサンス劇場でパリデビューを果たし、大成功を収めました。その時の観客には、名だたる批評家やオペラ座の若い踊り子たちもいたようです。
 その批評家の中に、後に『ジゼル』の台本を書いた作家のテオフィル・ゴーチエがいました。彼はめったに男性ダンサーを褒めないのですが、この公演を見て興奮した様子で、次のようにペローのことを書いています。
 「ペローは決してハンサムではない。それどころかひどく醜いと言ってよい。・・・しかし、私はペローの脚については黙ってはいられない。・・・足首と膝関節は、並外れてほっそりしていて、どこか女性的に丸みを帯びた脚を女性的すぎないようにしている。柔らかでしかも強く、優雅かつしなやかな脚である。」と言っています。なかなか良く観察していますよね。そして、ペローの跳躍の素晴らしさを評して「男シルフィード」と表現したのでした。

☆ジュール・ペローの生い立ち〜役者見習いからの舞台生活☆
 では、ジュール・ペローは、どのようにしてダンサーの道を歩みはじめたのでしょう。ペローは、1810年8月18日、フランスのリヨンという街で生まれました。父親が劇場の道具方主任をしていて、父の望みで9歳ころにダンスをはじめたと言われています。
 ペローが一番最初にあこがれたのは、シャルル・マズリエという道化役者でした。ペローは、マズリエの舞台を見て、アクロバティックな身振りや動きを身につけ、自分自身も舞台で踊るようになっていました。しかし、地方都市での活動には、限界がありました。
 ペローは、わずか12歳でパリに行き、まず大衆向けの劇場ゲテ座で踊り、次にポルト=サン=マルタン劇場で、身体の動きだけではなく、マイムや演技の表現などに磨きをかけてゆきます。観客も、ペローのエネルギーに満ちたパフォーマンスに感銘を受けていました。
 2つの特徴の違う劇場〜大衆的なゲテ座ともう少し客層が洗練されたポルト=サン=マルタン劇場〜での見習い修業時代に、ペローはさまざまな客層のニーズに応える芸域を広げたのでした。特にポルト=サン=マルタン劇場では、実験的な作品づくりができ、また、劇場運営や制作についても学びました。 

図版4ヴェストリス肖像Auguste_Vestris.jpg
図版4:オーギュスト・ヴェストリスの肖像画

☆運命の出会い【その一】 バレエの師オーギュスト・ヴェストリス☆
 ペローはもっと自分の技術を高めようと思い、仕事の空き時間を使って、バレエの稽古をはじめます。かのナポレオンをも魅了したオペラ座の名男性ダンサー、オーギュスト・ヴェストリスが引退後バレエの指導をしていたのです。ペローは彼の元でバレエの基礎を学びました。
 指導したヴェストリスもペローの才能を見抜き、なんとかパリ・オペラ座への道を拓こうとしました。しかし、この頃のパリ・オペラ座に君臨する男性ダンサーたちは、エレガントで美形というのが特徴でした。弟子のペローはというと、先ほどのゴーチエの表現が物語るように、容姿では勝負できませんでした。
 そこで、ヴェストリスは、ペローの軽やかな風のような身のこなし、跳躍を活かした「ペロー・スタイル」を提案したのです。それがどのようなスタイルであったのか。ペローと同様、ロマンティック・バレエのダンサーで振付家の一人、デンマーク出身のオーギュスト・ブルノンヴィルが伝えています。彼は、ペローと一緒にヴェストリスの稽古を受けていて、ペローと並ぶヴェストリスの有能なもう一人の弟子でした。
 「絶対に観客に容姿をじっとみられないように、舞台の上を飛び回って動くんだ!」とヴェストリスは、ペローにアドヴァイスをしていたようです。
 そして、1830年に念願のパリ・オペラ座デビューがやってきます。おそらく、フランスで踊るダンサーならだれでも、オペラ座で踊ることを望んだことでしょう。オペラ座では、ペローはマリー・タリオーニのパートナーとして踊るようになり、ダンサーとしての地位を確実にしてゆきました。
 しかし、だんだんとマリーは、人気が高まるペローにライバル心を抱くようになり、態度を変えていったのです。このことが、オペラ座でのペローの立場にどう影響したかはわかりません。
 ペローは、ダンサーとしての正当な評価を得たいと思い、1835年オペラ座を去ります。その後、ナポリ、ロンドン、ミラノ、ウィーン、ミュンヘンを巡り、各地で成功を収めたのでした。
 さて、いよいよクライマックス!ペローと私、カルロッタ・グリジの、お互いの人生を変える出会いがやってきますが、次回のお楽しみということにいたしましょう。

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図版1:『エスメラルダ』を踊るカルロッタ・グリジとジュール・ペロー
作者:Jules Bouvier
制作年:1844年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版2:1871年から1874年の間オペラ座でバレリーナを指導するジュール・ペロー
作者:エドガー・ドガ
制作年:1875年 
所蔵:オルセー美術館 パリ
(1986年からオルセー美術館、1911年から1986年まではルーヴル美術館)

図版3:『ル・ジンガロ』を踊るジュール・ペロー
作者:Alexandre Lacauchie
制作年:1841年ころ
所蔵:Bibliotheque de la danse Vincent Warren
   こちらの図書館に所蔵されています。
   http://esbq.asp.visard.ca/Record.htm?record=10104857124929220399&lang=EN

図版4:オーギュスト・ヴェストリスの肖像画
作者:Thomas Gainsborough
制作年:1781年
所蔵:テート・ギャラリー ロンドン


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2014年04月10日

第3回

図版1 1842 グリジ ジゼル.JPG
図版1:『ジゼル』第一幕を演じるカルロッタ・グリジ

☆イタリア人バレリーナが大活躍☆
 はじめまして!マリー・タリオーニからロマンティック・バレエの紹介を引き継ぎましたカルロッタ・グリジです。ちょっとぽっちゃりしていますがバレリーナです。歌も歌います。私は、皆さんの時代でも全世界でご覧いただいている、バレエ『ジゼル』の初演で主役を務めました。
 少し自己紹介させていただきますと、私は、1819年生まれのイタリア人です。早い時期からダンスの才能を感じさせたようで、両親がミラノ・スカラ座バレエ学校(当時、高い水準の舞踊教育を行い、多くの著名な舞踊家を輩出)に入れてくれました。
 そこで、フランス人教師のクロード・ギエに指導を受け、1829年にはスカラ座のコールド・バレエとして踊っていました。あまりに早く成功を収めたために、踊りすぎて体調を崩し、踊りを一時中断しなくてはなりませんでした。
 従姉にジュリア・グリジというオペラ歌手がおりまして、家系的に歌の才能にも恵まれていたので、歌の仕事の依頼もありました。しかし、踊りへの思いを捨てきれず、健康を取り戻してから、再び踊り手としての活動を始めました。
 イタリア人興行師と契約し、イタリア各地を巡業中に運命の出会いが訪れます。1834年からナポリで踊っていた時、フランス人のダンサー兼振付家のジュール・ペローの目に止まったのです。ここで私は真の指導者と出会い、1836年からマダム・ペローと名乗り(1842年まで)、ロンドン、パリ、ウィーンなどで踊り、公私共にペローのパートナーとしての日々が始まりました。
 1840年には、民族舞踊でパリの観衆の注目を集めました。そして、ペローは私のために、1841年にパリ・オペラ座初演された、ロマンティック・バレエの最高傑作である『ジゼル』を振り付け、大成功を収めたのです。その成功のおかげで、私はパリ・オペラ座での地位を確立し、1849年まで在籍しました。そして、1842年から1851年までの間、定期的にロンドンでも活動し、人気を博しました。
 その後、マリー・タリオーニやファニー・エルスラーに続き、1850年にサンクト・ペテルブルクで『ジゼル』を踊ってロシアデビューを果たし、帝室劇場でバレリーナとして1853年まで踊り、翌年引退しました。

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図版2:「オペラ・ポルカ」を踊るカルロッタ・グリジとジュール・ペロー

☆不朽の名作『ジゼル』☆
 さて、いま皆さんにご覧いただいている私の姿は、第一幕の村娘の姿です。衣装の胴着は茶色で、スカートは黄色の生地です。「え?」と思われた方も多いでしょうか。おなじみなのは、濃いブルーの胴着に水色のスカートかもしれませんね。衣装の色や形も演出家の考え方や国の違いや時代によって、ずいぶんと変わっているようです。あと、この頃のオペラ座の場合、節約のために、他の作品の衣装を着回したりもしていたようです。
 この『ジゼル』ほど長い間、バレエ作品として多くの国で上演され続けているものはないでしょう。この作品は、『ラ・シルフィード』と並んで世界最高長寿のバレエ作品の一つであり、上演回数も最多に近いのではないでしょうか。
 なぜ、『ジゼル』という作品が、これほどまでに人々に愛され続けているでしょう。それは、この作品が「生と死」という人類共通のテーマを扱っているからかもしれません。第一幕が「生」の世界で、第二幕が「死」の世界。シンプルだけど、全人類に通じるテーマです。そして、「男女の愛」、「親子の愛」、「裏切り」、「絶望」など、人間が生きていく上で誰しもが経験することを、音楽と踊りと芝居とが一体となった舞踊劇として表現されているからなのです。

図版3 グリジ ジゼルVA .jpg
図版3:『ジゼル』第ニ幕のカルロッタ・グリジ

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図版4:『ジゼル』第一幕のカルロッタ・グリジとリュシアン・プティパ

☆『ジゼル』の初演を支えた人々☆
 バレエは、舞踊でつづられる物語ですが、演劇同様にロマンティック・バレエの作品には、すべてに台本があります。この時代でバレエ史上有名な作家の一人は、テオフィル・ゴーチエでしょう。台本も書きましたし、評論も書いて、バレエのことを多くの人に知らしめた人物の一人です。彼の批評には少し主観も入り、好みのバレリーナとそうではないバレリーナがいたようで、どちらかというとフランス人のバレリーナは痩せていて(注1)、あまりお好みではなかったようです。
 ゴーチエは、私の熱烈なファンで、私のためにこの『ジゼル』の台本を書いてくれました。バレエの台本を書くのは初めてだったので、ゴーチエは著名な歌劇台本作家のド・サン=ジョルジュに協力を求め、実現しました。私のことを、タリオーニとエルスラーと肩を並べるバレリーナと評価し、他にも私の主演作品『ラ・ペリ』の台本を手がけました。これらの名作を初演できたおかげで、私は後世に名を残すこととなりました。
 しかしながら、皆さんも良くご存じのことでしょうが、バレエは、バレリーナ一人で成り立つものではありません。作曲家、振付家、台本作家、衣装や美術を作る人達、そして、主役を支える舞踊家たち、劇場を運営してお金のことなどを考えてくれる人たち、そして、バレエのことを文章にして多くの人に伝える人たちなどが、関係しあって成り立つものです。 
 『ジゼル』の初演の振付を担当したのは、表向きはジャン・コラリというオペラ座所属の振付家ですが、彼はマイムの部分を主に手がけ、ジゼルの踊りのほとんどは、私の才能を見出し、世に送り出してくれたジュール・ペローだと言われています。
 そして、アルブレヒトとして、私のパートナーを務めてくれたのがリュシアン・プティパです。皆さんが良くご存知のマリウス・プティパのお兄さんで、ロマンティック・バレエ時代のパリ・オペラ座で活躍し、非常に評価の高い男性舞踊手の一人でした。
 そして、カルロッタ・グリジ、フォルステール嬢と並び、ゴーチエによってオペラ座の<美の三女神>の一人と言われたアデール・デュミラートルが、第二幕でミルタを演じました。アドルフ・アダンの音楽の調べとともに、演劇的にも完成度の高いバレエ『ジゼル』がここに誕生したのです。
 それでは、次回は、私以外にこの不朽の名作『ジゼル』に関わった人たちを、もっと詳しくご紹介したいと思います。どうぞお楽しみに☆彡

【注釈1】
 フランス人の痩せているバレリーナに対して、新聞「ル・フィガロ」でも、「『野菜のバレエ』でアスパラガスの役を踊れば大変結構だろう」と評されていて、バレリーナに求められる「美しさ」が今と違うことが伺えます。

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【豆知識】<情報化>とバレエの普及

 ロマンティック・バレエの時代に、バレエが商業化、大衆化したと言われています。理由には、いくつかあります。一つは、テオフィル・ゴーチエやジュール・ジャナンといった作家たちが、バレエの公演評を書いたことがあげられるでしょう。そして、その書いた人の多くが男性だったこともあり、特に女性のバレリーナのことを賛美し、書き残したことで、「ロマンティック・バレエ=バレリーナの時代」という印象が強く残ったのかもしれません。
 また、今の時代のブロマイドのように、バレリーナたちのリトグラフ(版画)がたくさん刷られ、中産階級の人々の間で流行し、楽譜の表紙にも使われました。
 リトグラフのビジネスは大盛況だったようで、現在と変わらず、有名人の私生活やファッションに対する興味、関心が高かったことが伺えます。文豪バルザックの著作など読んでみると、この時代のパリの人々の生活の様子を知ることができます。
 大型百貨店もでき、消費活動が特に女性の間で活発になり、新聞や雑誌も発達し、情報の広がり方も早くなってゆく時代でもありました。

図版1:『ジゼル』第一幕のカルロッタ・グリジ
作者:Alfred Edward Chalon, H.Robinson
出版年:1844年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版2:楽譜の表紙に描かれた「オペラ・ポルカ」を踊るジュール・ペローとカルロッタ・グリジ
作者:Nichokas Hanhart
出版年:1830−40年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版3:『ジゼル』第ニ幕 ウィリに扮するカルロッタ・グリジ
作者:Lacauchie, Rigo Frères
出版年:1840年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版4:『ジゼル』第一幕のカルロッタ・グリジとリュシアン・プティパ
作者:Victor Coindre
出版年:1841年ころ
所蔵:Harvard Theatre Collection U.S.A.


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2014年03月19日

第2回

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図版1:『ジターナ(ジプシー女)』を踊るマリー・タリオーニ

☆舞台のマジック☆
 こんにちは!お色直しをして、再登場のマリー・タリオーニです。
 ちょっとイメージチェンジ・・・と言いますか、私に対する固定観念を変えていただきたくて、ジプシーの女性(注釈1)に扮した姿を披露いたしました。
 私はいつでも透明人間みたいに描かれていて、その印象が強いですが、情熱的な人間の女性の役も演じていたのです。
 ライバルだったエルスラーについても、私は「キリスト教の踊り子」、エルスラーは「異教の踊り子」というテオフィル・ゴーチエ(この人は、どちらかと言うとエルスラーの方がお好みだった)の表現によって、対照的なイメージが作られたように感じます。でも、エルスラーは、1838年私がパリを留守にしている間に『ラ・シルフィード』を踊り、ゴーチエの賞賛を得ていますし、ルシール・グラーンもデンマーク出身のオーギュスト・ブルノンヴィルの振付による『ラ・シルフィード』で、シルフィードを演じています。
 とはいえ、私タリオーニが、バレリーナとしての不動の地位を確立したのが、空気の精シルフィードであり亡霊などの非人間的な存在であったことは、間違いありません。そして、その幻想的な存在をより効果的に演出する技術が、この時代に発達したのです。それは、ポワント(つま先立ち)で踊る技術であり、ガス灯による照明でした。

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図版2:『ラ・シルフィード』を踊るエルスラー

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図版3:トーシューズ二種類

☆宙吊りからポワントへ☆
 「バレエと言えばトーシューズ」というイメージの誕生も、私の時代でしょう。少し前の時代から、「飛ぶ演出」としてワイヤーによる宙吊りがありました。これは、ロマンティック・バレエの時代にも用いられましたが、かなり危険なものでした。
 私の『ラ・シルフィード』の公演の時に、二人のシルフィードが宙吊り状態で、降りて来られなくなるというアクシデントがあったのです。道具方がすぐに対応して大事には至りませんでしたが、私は、舞台上から「皆様、誰にも怪我はありません」と、驚いたお客様たちにお伝えしたのです。
 ワイヤー吊りの演出が下火になってゆく過程で、ポワントの技法が発展したことには、関係があるかもしれません。
 では、いつ頃からバレリーナはポワントで踊ったのでしょうか。私以前にもつま先立ちで踊ったバレリーナは何人もいたのですが、彼女たちはつま先で立ってはいましたが、踊るという感じではなかったようです。
 「つま先立ちで、長時間美しく踊る」ための身体を整えたのは、私のイタリア人の父フィリッポです。私は、父の一日6時間にも及ぶ厳しい指導によって、「空気のように舞う」ことのできるバレリーナに仕上がったのです。いつの時代も、美のための道は容易ではありません。
 では、私が履いていたトーシューズは、どのようなものだったでしょうか。皆さんの時代ですと発表会用のサテンのバレエシューズに似ています。つま先を糊で固めて、立ちやすく作られてはいませんでした。当時のバレリーナたちは、つま先に厚紙のようなものを詰めたり、中にはお肉を詰めた人もいたようです。
 写真を見てもらいましょう。左側が、私の生徒だったエンマ・リヴリのシューズです。1860年くらいのもので、私が履いていたものとほぼ同じです。
 そして、右側のものがアンナ・パヴロワのもので、おそらく1914年くらいに、イタリア人の靴職人ロメオ・ニコリーニが作ったものです。つま先の加工が今のもののように固くなって、靴自体が「つま先で立って踊る技術」に大いに貢献しましたし、音も静かだったと言われています。この靴のおかげで、アンナ・パヴロワは、自分の足の弱さを克服し、より洗練された豊かな表現の世界を広げたのです。
 この2つのトーシューズを比べてみて、何に気づくでしょうか。私が活躍した時代のトーシューズでは、グラン・フェッテは回れません。はじめてグラン・フェッテを32回転まわったのは、イタリア人のバレリーナ、ピエリーナ・レニャーニです。1895年に有名な『白鳥の湖』で成功したと言われています。ですので、つま先が高度な回転技にも耐えられるようになったのも、1890年前後のことと想像できるでしょう。
 道具の進歩と舞踊技術の進歩には、密接な関係があります。衣装も、軽くて薄い生地が使われるようになり、スカートの長さもつま先の動きが見やすいように、短くなっていったのです。

☆ランプからガス灯へ☆
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図版4:尼僧のバレエ

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図版5:マリー・タリオーニ振付の『蝶々』を演じるエンマ・リヴリ

 舞台装置もずいぶんと変化しました。まず、この時代に幕が使われるようになり、幕間の場面転換も可能になったのです。
 そして、一番大きな出来事は、照明がロウソクとランプからガス灯に変わったことです。皆さんの世界では、電気照明が当たり前ですよね。私達の時代には、まだ電気照明は一般的ではありませんでした。
 ガス灯の登場(オペラ座では1822年)によって、月明かりのような青白い夜の光景を作り出すことができたのです。私がパリ・オペラ座で1831年に出演した、『悪魔のロベール』というオペラの「尼僧のバレエ」のシーンをご覧ください。尼僧院のお墓で、夜になると亡霊たちが踊り出すという、少し後の『ジゼル』第二幕にも通じるシーンです。この光景を目の当たりにした観客は、さぞかしその幻想的な世界に驚いたことでしょう。
 しかしながら、技術の進歩には、犠牲がつきものでした。お話するのが、とてもつらいのですが、私の愛弟子だったエンマ・リヴリは、ガス灯の火が衣装に燃え移り、亡くなりました。私は、エンマを後継者として育て、彼女のために『蝶々』という作品を振り付けたほど大切な存在でした。
 劇場での火災は時々起きていたので、衣装に防火処理をする条例が出されていました。しかし、その処理をすると衣装が変色し重くなるので、バレリーナたちは、あまり受け入れませんでした。
 少ししんみりとしてしまいましたが、ロマンティック・バレエの繁栄と言われた時代、ヨーロッパは、それほど安定していませんでした。フランスでは、1830年と1848年にも革命があり、1870年にはプロシアとの普仏戦争もありました。この頃建設中だった、皆さんにお馴染みの豪華なオペラ座(ガルニエ宮)は、戦争中は軍の食料貯蔵庫として使用され、建設も一時中断していました。
 それでも、人間は、どんな時代でも、美しいものを求め、新しい発明をし、前に向かって芸術や文化を育んできたのです。
 次回は、案内役を『ジゼル』を初演したカルロッタ・グリジに託して、彼女が主演した数々の名作と当時の振付家たちのお話などをお伝えしたいと思います。

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【豆知識】2つの『ラ・シルフィード』
 今回のお話の中で、デンマーク出身の振付家オーギュスト・ブルノンヴィルによる『ラ・シルフィード』が出てきました。ロマンティック・バレエの時代には、現在も上演されている2つの『ラ・シルフィード』が作られました。
 一つは、マリー・タリオーニが主演したもので、マリーの父フィリッポ・タリオーニの振付、音楽がシュネゾフェールで、1832年にパリ・オペラ座で初演されたもの。
 もう一つは、デンマークの振付家オーギュスト・ブルノンヴィルが振付し、音楽をレーヴェンスキョルが作曲し、主役をルシール・グラーンが演じ、1836年にコペンハーゲンの王立劇場で初演されました。
 オーギュストは、パリ・オペラ座に1826年から28年まで在籍し、マリー・タリオーニのパートナーを務めていました。そして、1834年にパリでマリーの演じる『ラ・シルフィード』に感銘を受け、自国でも上演しようと振り付けたのです。ブルノンヴィルは、自分で演じたジェームズ役を技術的に発展させ、バレエ作品における男性の見せ場を充実させました。
 また、よく混同されるのが、20世紀に入ってからミハイル・フォーキンが振り付けた、一幕もののバレエ『レ・シルフィード(フランス語で、「シルフィードたち」の意味)』です。何が違うかといいますと、『ラ・シルフィード(ある特定のシルフィードの意味)』には、明確な物語がありますが、『レ・シルフィード』には、特に具体的な物語はなく、主役のシルフィードと詩人を中心に、群舞のシルフィードたちによって、音楽を動きで表現する作品になっています。

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【注釈1】「ジプシー」の表記について
 最近では、「ジプシー」の表記は、偏見、差別的に使用される場合があることを理由に、「ロマ族」等と表記されるようになっていますが、このタリオーニが出演した“La Gitana”という原語を尊重し、そのままの表記、表現を使わせていただきます。

図版1:『ジターナ(ジプシー女)』を踊るマリー・タリオーニ 
作者:Jules Bouvier
製作年:1840年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版2:『ラ・シルフィード』を踊るファニー・エルスラー
作者:Eliphalet M Brown , George W Lewis, Joseph Fairfield Atwil
出版:1842年か1843年 N.Y.

図版3:2つのトーシューズ
<左側>エンマ・リヴリの1860年ころのもの
所蔵:オペラ座付属図書館   
<右側>アンナ・パヴロワの1914年ころのもの

図版4:「尼僧のバレエ」のシーン
マイアベーアのオペラ『悪魔のロベール』より
1831年パリ・オペラ座初演
作者、版画家不詳
所蔵:オペラ座付属図書館

図版5:マリー・タリオーニ振付の『蝶々』を演じるエンマ・リヴリ
作者:Jacotin
制作年:1860年
所蔵:フランス国立図書館


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