2014年06月13日

第7回

図版1:チェリート 妖精の湖 index.jpg
図版1 バレエ『妖精の湖』で永遠の命のスカーフを身にまとうファニー・チェリート

☆妖艶なる美魔女ファニー・チェリート☆

 ボンジョルノ!ファニー・チェリートです。ちょっとエアリーな感じで登場してみました。私の一般的なイメージは、「情熱的で色っぽい」とか「活気に満ちた」という感じらしいので、タリオーニお姉さまには及びませんが、少し違った雰囲気をお見せしたいと思いました(図版1)。
 私は、カルロッタ・グリジのライバルとして登場することが多いと思います。グリジを気に入っていた作家のゴーチエには、私はあまり好かれていなかったようです。それでも、1840年代後半からパリ・オペラ座で踊っていた頃には、ゴーチエが台本を書いて、私が振り付けをして一緒に作品を作ったりしました。このことは、またあとでお話します。
 私とグリジのエピソードとして一番有名な話は、第1回でタリオーニお姉さまが紹介したことを覚えていらっしゃるでしょうか。1845年に、ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場の支配人ベンジャミン・ラムリーが、人気バレリーナの競演として企画した『パ・ド・カトル』でのエピソードです。タリオーニお姉さま、カルロッタ・グリジ、ルシール・グラーンと私の四人でソロを踊る順番を決めた時に、私とグリジが大喧嘩をしたことです。
 このエピソードだけみると、プライドの高い人気バレリーナ同士の感情的なぶつかり合いのような印象があるかもしれませんが、実は私とグリジのライバル関係は、この時始まったわけではありませんでした。
どうやら喧嘩を仕掛けたのは私のようなのですが、このグリジとのいざこざだけが印象に残るのは悲しいので、私の生い立ちとバレリーナとしての歩みについてお話いたします。

☆パワースポット、ナポリ☆
 私は1817年5月11日にナポリで生まれました。生粋のナポリっ子です。グリジと同じように親の勧めで早い時期から踊りを始め、サン・カルロ劇場の付属バレエ学校で学び、1832年に卒業しました。最初はあまり踊りの才能を感じさせなかったようですが、成長とともに上達し、1832年にナポリのレージョ劇場でデビューを飾りました。
 「ナポリのサン・カルロ劇場」と聞いて、何か思い出しましたか。そう、ここはカルロッタ・グリジとジュール・ペローの運命的な出会いの場所ですが、私とグリジにとっても因縁の地だったのです。
 1835年にサン・カルロ劇場で、あるバレエが初演されました。『アモールとプシケー』というギリシャ神話を題材にしたバレエでした。振付は、サルヴァトーレ・タリオーニという人で、私が通ったバレエ学校の創立者でもありました。
 「え、タリオーニ?」と思った方もいるでしょうか。このサルヴァトーレは、マリー・タリオーニ(タリオーニお姉さま)の叔父さんで、マリーの父フィリッポの弟です。フィリッポとサルヴァトーレの父親もダンサーで、タリオーニ家も芸能一家でした。
 そのサルヴァトーレが振り付けた『アモールとプシケー』の舞台でグリジがタイトルロールのアモール(キューピッド)役、私はアイリス(虹の女神)役で共演していたことが、この時の台本に残されています。
 この頃私は18歳で、グリジは16歳。一緒に踊っていてもお互いに意識してはいませんでしたが、思い返すとすでに私達のライバル関係は、この時に始まっていたのかもしれません。グリジはこの年にナポリでペローと出会っているのに、私はペローが着く頃には別の街で仕事をしていて出会いませんでした。
 しかし、私達二人のバレリーナ人生にとって、ジュール・ペローが重要な存在となることはその後の三人の活躍を見ればわかります。
 ナポリという街は、パワースポットなのでしょうか。この地で出会ったグリジとペローは、私より先にロンドンやパリでの活動を始め、脚光を浴びるようになります。私は、ナポリの他にミラノ、ウィーンなどで踊り、一足遅れてロンドンに導かれてゆきます。

図版2:リトアニアの娘、チェリート.jpg
図版2 『ラ・リチュアナ』を踊るチェリート

☆ロンドンでの大勝利☆
 私のナポリやイタリア各地での活躍ぶりは、ジュール・ペローやリュシアン・プティパの時と同じように、すでに他の国にも広く伝わっていました。
 ちょうどロンドンでは、マリー・タリオーニ、ファニー・エルスラーに次ぐバレリーナの存在が待たれていました。グリジは、ロンドンでも活動しましたが、すでにオペラ座のバレリーナとして契約が成立するかしないか、というところでした。そんな状況の中で、1840年、私ファニー・チェリートがロンドンの観衆に迎えられることとなったのです。
 図版2を見てください。ポーランド風の衣装でマズルカを踊る私の姿で、ロンドン・デビューの時のものです。この頃のヨーロッパの人たちは、自分たちとは違う文化や価値観を持つ国に憧れを抱いていたこともあり、民族舞踊が大流行でした。
スペインや東欧の民族舞踊をバレエの舞台に取り入れたものが、特に大衆の人気を集め、ジュール・ペローやファニー・エルスラーなども積極的に民族舞踊の要素を作品に取り入れて、作品に豊かな味わいを加えていました。
 図版1で紹介した『妖精の湖』もロンドン・デビューの踊りの一つです。私のロンドン・デビューには、ヴィクトリア女王も臨席されて非常に話題になりました。
 作品のモチーフは、『ラ・シルフィード』やこの頃流行のバレエに共通するありきたりなものだったのですが、私の軽やかで細やかな足さばきがロンドンっ子の心をとりこにしたようです。
私の芸風は、ゆったりとしたアダージオから軽快なアレグロまでさまざまな技術を身につけていたので幅広い作品を表現できたのでした。「チェリートマニア」と呼ばれる狂信的なファンもいて、そのような支持者とジュール・ペローという振付家の才能のお陰で、私はロンドンでバレリーナとしての名声を獲得したのです。

図版3アルマ、チェリート.jpg
図版3 ペロー振付『アルマ、もしくは火の娘』の「魅惑の踊り」を踊るチェリート

☆魔術師ジュール・ペロー☆
 私とグリジのもう一つの共通点は、ペローによって本物のバレリーナに仕上げられたことと言えるでしょう。私は1837年にウィーンで数ヶ月間ペローの指導を受け、その指導によって私の踊り技術は驚くほど進歩したのでした。
 1842年、ペローはパリ・オペラ座での振付家としての契約は諦め、ロンドンを拠点にすることを決めます。この年にグリジはロンドンで初めて『ジゼル』を踊りました。そして、同じシーズンにペローは私のために『アルマ、もしくは火の娘』というバレエを作りました。このプログラミングも、劇場支配人ラムリーが、「チェリートとグリジの因縁の対決」として企んだこととも考えられます。
 『アルマ、もしくは火の娘』では、私も振付を提案してペローと共に作品を作り上げました。私は、どちらかというとドラマティックに演じるのが苦手だったのですが、ペローの踊りの構成によって、見事に踊りで物語を伝えることに成功したのでした。特に、主人公のアルマが踊った「魅惑の踊り」は、静かに踊りはじめ、だんだんと激しくなって男性を誘惑してゆく踊りで、私の代表作の一つとなりました。
 そして、もう一つペローが私のために振り付けた作品で忘れてはならないのが、『オンディーヌ、もしくは水の精』です。これは、皆さんの時代でも英国のバレエ文化の中に受け継がれているものの一つでしょう。この『オンディーヌ』によって、ジュール・ペローはロンドンで振付家としての地位を確実にし、私の魅力を十二分に発揮してくれました。

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図版4 『オンディーヌ』の第一幕で貝殻に乗って登場するチェリート

 図版4をご覧ください。このシーンは、見ての通り「貝殻」と名付けられたシーンで、私が最初に登場した姿です。この時の登場の仕方が波の中から貝殻が浮かび上がるように出てくる演出で、当時の道具方の優れた技術が駆使されていたようです。
 そして、私がこの作品で踊った「パ・ド・ロンブル(影の踊り)」は、『アルマ』の「魅惑の踊り」と並んでロンドンの観衆を魅了したのです。この踊りは人間の姿になった水の精オンディーヌが自分の影と踊るシーンで、第5回の図版4で紹介されていますので、そちらも見てくださいね。
 こうしてペローと私は、ハー・マジェスティーズ劇場を活動拠点として、数々の名作を世に送り出したのです。ペローは1843年に主任振付家兼舞踊手として契約し、振付家としての黄金時代を迎えます。
 私は仕事上の最高のパートナーであるジュール・ペロー、そして、一緒に踊るパートナーであり、人生を共に歩むことになるアルチュール・サン=レオンと巡り会い、バレリーナとしての最盛期をロンドンで過ごします。
 そして、いよいよ新たなチャレンジの地パリ・オペラ座が私を待っています。それでは、次回もお目にかかりましょう!

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図版1:バレエ『妖精の湖』で妖精を演じるチェリート
出版年:1840年7月15日
作者:A de Valentini(artist)
John Samuelson Templeton(Lithographer)
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版2:『ラ・リチュアナ』を演じるチェリート
作者:Jules Bouvier
出版年:1840年 
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版3:バレエ『アルマ、もしくは火の娘』の「魅惑の踊り」を踊るチェリート
作者:Jules Bouvier
出版年:1842年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版4:バレエ『オンディーヌ、もしくは水の精』のチェリートの登場シーン
作者:Numa Blanc Fils(artist)
C.Graf (Lithographer)
出版年:1843年7月15日
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン


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2014年05月28日

第6回

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図版1: 『ジゼル』初演(1841年)で農夫ロイス(アルブレヒト)を演じるリュシアン・プティパ

☆エレガントな貴公子リュシアン・プティパ☆ 
 皆さん、ごきげんいかがですか!またまた、カルロッタ・グリジです。今回は、私がペロー以外で初めて踊ったパートナー、リュシアン・プティパについてお話したいと思います。彼は、バレエ『ジゼル』の初代シレジア公爵アルブレヒト(農夫名ロイス)を演じ、ロマンティック・バレエ時代を代表する貴族的な存在感を持った男性ダンサーの一人です。
 この「貴族的な存在感」というのは、いつの時代も主役の男性ダンサーには非常に重要です。主役の男性ダンサーを「ダンスール・ノーブル」と呼ぶのを聞いたことがありますよね。「ノーブル」という言葉には、「貴族的な」とか「品格のある」という意味があります。リュシアンは、オペラ座でその主役としての役割を様々な作品で果たしたのです。
 私は、1841年のパリ・オペラ座デビュー以来、『ジゼル』、『ラ・ペリ』、『パキータ』などで、リュシアンと一緒に踊りました。私が、パリ・オペラ座で長年バレリーナとしての地位を維持できたのも、リュシアンという素晴らしいパートナーの支えがあったからと言えるかもしれません。
 この時代、男性ダンサーに対する風当たりが強く、文章での記録を探すのは一苦労です。それでも、数少ない証言をたどってリュシアン・プティパがどのようなダンサーだったのか、ということに迫ってみましょう。
 ではここで、ロマンティック・バレエの語り部テオフィル・ゴーチエに登場してもらいます。私の熱狂的なファンで、この時代の証言者であり、彼が残した言葉が一番の有力情報です。これは、ペローのところでもお話しましたが、ゴーチエは基本的には男性ダンサーのことは褒めませんし、余程でなければ書き残しもしないでしょう。
 その彼が、リュシアン・プティパについて書いているのでお伝えしたいと思います(注1)。

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図版2: 幻想バレエ『ラ・ペリ』のアクメを演じるリュシアン・プティパ

 まずは、1841年のバレエ『ジゼル』でのアルブレヒトについて、ゴーチエは次のように書いています。
 「(リュシアン・)プティパは品よく情熱的で感銘を与えた。これほど楽しませてくれて、歓迎された男性ダンサーは久しく存在しなかった」。
 次に、1843年の幻想バレエ『ラ・ペリ』のハレムの主人アクメについてです。
 「他の多くの場合もそうであったが、ここでもプティパの手柄を正当に評価しなければならない。相手役のバレリーナに彼はなんと献身的に仕えることか!いかに相手の身を案じ、いかに彼女を支えることか!彼は自分に人の目を引きつけようとはしない。自分だけのために踊らない。だからこそ、時にはいわれのない不評が男性ダンサーにまといつく今日でも、プティパは観客に歓迎されている。観衆が男性ダンサーを嫌悪するに至ったのは、わざとらしい品の良さ、うさん臭い嫌な気取りのためだが、彼にはそれがない。彼はきわめて明敏なマイムであって、常に舞台を把握し、ごく小さな部分も疎かにしない。だから、彼は文句なしの成功を収めた」。
 皆さんは、このゴーチエの言葉からリュシアンの舞台での様子をどのように想像されたでしょう。お分かりとは思いますが、相手役のバレリーナというのは私のことです。この時代の男性ダンサーに求められた役割も理解できますし、何がバレエを踊るにあたり重要だったかということも読み取れると思います。この時代のバレエでは、「演じること」が重要だったと考えられます。ゴーチエが伝える限りでは、リュシアンは踊りの部分よりも演技の部分での評価が高いように思います。

☆リュシアン・プティパの生い立ち☆
 少しリュシアン・プティパのイメージが湧いてきたでしょうか。ここで、彼の生い立ちをお話します。
 父は、ジャン=アントワーヌ・プティパというダンサーでバレエ教師、母はヴィクトリーヌ・グラッソーといい、かなり名声を博した悲劇女優でした。弟は、後にロシアでチャイコフスキーとバレエを一緒に作った有名なマリウスです。プティパ兄弟は芸能一家に育ち、生まれ落ちてからほとんど舞台とともに生きていたと言えるでしょう。
 リュシアンは、1815年にマルセイユで生まれました。1819年には、父がバレエ・マスターとしてブリュッセルのモネ劇場で働くことになり、一家で移り住みます。この地で、リュシアンは父の指導のもとバレエを学びました。
 彼の成長はめざましく、父はパリから来た有名な歌手の公演に合わせて、リュシアンのデビューを準備しました。その公演が大成功を収め、その時に観客として見ていたハーグの王立劇場の監督から第一舞踊手としての契約をもらったのです。三ヶ月間ハーグで踊った後、ボルドーの劇場と契約を結びました。ボルドーでも人気を博し、その名声はパリのファニー・エルスラーなどのバレリーナたちの耳にも届き、リュシアンはパリに上京することとなりました。
 彼の名前はすでにパリで広まっていて、直ちにオペラ座と第一舞踊手としての契約を結びます。デビューは、私より一足先で1840年6月10日に、ファニー・エルスラー主演の『ラ・シルフィード』でエルスラーの相手役ジェームズを踊りました。
 この成功を皮切りに、リュシアンのオペラ座での栄光の時代が続きます。私とリュシアンは1840年代のオペラ座を支えた看板スターだったと言えるでしょう。
 図版3から図版5までは、私がリュシアンと共演した作品です。図版3を見てください。これは、私が1841年2月のパリ・オペラ座でデビューしたドニゼッティのオペラ『ラ・ファヴォリータ』のバレエ・シーンで、リュシアンと初共演した時の様子です。
 ペロー以外のパートナーと踊るのが初めてだったので、その不安げな様子は批評にも書かれたほどでした。でも、同じ年の6月には、リュシアンと『ジゼル』を踊ることになり、歴史的な大成功を収めたのです。リュシアンと共演したいくつかの版画を見て頂いても、二人の信頼関係ができて行く様子を感じ取れるのではないでしょうか。

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図版3: 『ラ・ファヴォリータ』で共演するリュシアンとグリジ

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図版4: 幻想バレエ『ラ・ペリ』第二幕を踊るリュシアンとグリジ

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図版5: 『パキータ』を踊るリュシアンとグリジ

☆オペラのバレエ・シーンの振付家☆

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図版6: リュシアン・プティパ振付『シャクンタラ』のシャクンタラの衣装

 最後に、リュシアンの業績をもう一つお話します。彼は、振付家としての顔も持ちあわせていました。最初に振り付けたのは1853年で、ルイ・ニデルメイェールのオペラ『フロンド党』のディヴェルティスマン(余興の踊り)でした。初めてのバレエ作品は、ゴーチエが台本を担当した1858年の『シャクンタラ』で、この頃流行りの異国趣味でインドの神話の世界を題材にした二幕仕立てのバレエ・パントマイムでした。図版6は主役のシャクンタラの衣装で、皆さんにお馴染みのバレエ『バヤデール』の雰囲気を感じさせます。
 バレエの振付の才能はどうやら弟のマリウスのほうが上だったようですが、リュシアンはオペラの中のバレエ・シーンの振付で活躍しました。ヴァーグナーの『タンホイザー』の「バッカナール」、他にもヴェルディやロッシーニのオペラでバレエ・シーンを手がけたと言われています。
 1860年からは主席バレエ・マスターとして振付やダンサーの指導にも当たりました。彼の教え子の一人が、第5回に登場したルイ・メラントです。
 1868年に狩りで怪我をしたことで、リュシアンは現役を退き、その後は1872年から古巣のブリュッセルのコンセルバトワールの監督を務めました(〜1875年まで)。
 1880年にパリ・オペラ座に戻りパントマイムを教え、1882年には最後の作品『ナムナ』をオペラ座で振り付けました。1898年、その高貴な存在感に相応しく、太陽王ルイ14世が栄華を極めた地ヴェルサイユで天に旅立ちました。
 リュシアンの「エレガントな存在感」は、弟子のルイ・メラントに受け継がれ、パリ・オペラ座は、振付家のジョセフ・マジリエや私のライバル、ファニー・チェリートとその夫君アルチュール・サン=レオンが盛り上げて行くことになります。
 それでは、私はそろそろロシアに向かうので、ファニー・チェリートに続きをお任せしたいと思います。チェリートとは、『パ・ド・カトル』の時に踊る順番でもめましたが、彼女もパリ、ロンドンを中心に人気のあったバレリーナの一人ですし、振付も手がけしました。サン=レオンは、皆さんにお馴染みの『コッペリア』の振付家です。
 どうぞ、チェリートとサン=レオンのことをよろしくお願いたします!

注1: 渡辺守章編『舞踊評論』1994年 新書館 「テオフィル・ゴーチエ」井村実名子訳から引用

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【豆知識】20世紀初頭までオペラとバレエはいつも一緒の兄弟だった!

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図版7: 『ジゼル』初演の時のポスター(1841年6月28日)

 現在は、オペラとバレエは別々のプログラムになっていて、一夜のプログラムでオペラとバレエを両方見ることはあまりありませんね。
 実は、バレエを見るためだけに劇場に行くという習慣は、あまり古くありません。20世紀のはじめまでは、オペラとバレエは一緒に見るのがヨーロッパやロシアでは普通のことで、いつも一緒の兄弟のような存在でした。
 それを証明するものとして、図版7を見てください。バレエ(当時はバレエ・パントマイム)『ジゼル』が初演された時のポスターです。GISELLEと大きな文字で見えますね。その下にLES WILISとあって、その下にMOÏSEという文字がわかりますか。このMOÏSEは、ロッシーニのオペラ『モーセ』で、この頃は第一部がオペラ、第二部がバレエになっていて、観客はゆったりと劇場で時間を過ごし、舞台鑑賞だけではなく、他の観客やバレリーナと歓談したのです。バレエが第二部なのは、この頃の常識だったようです。バレエのお客さんが時間通りには来ないことを想定していたとのことです。

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図版1: 『ジゼル』第一幕で農夫ロイスを演じるリュシアン
出版社: Martinet, Paris
出版年: 1841年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版2: 幻想バレエ『ラ・ペリ』でアクメを演じるリュシアン
出版社: Martinet, Paris
出版年: 1843年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版3: オペラ『ラ・ファヴォリータ』(1841年)で、バレエ・シーンを踊るリュシアンとグリジ
出版者: Martinet, Paris
出版社: 1841年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版4: バレエ『パキータ』でパ・ド・ドゥを踊るリュシアンとグリジ
出版社: Martinet, Paris
出版年: 1846年ころ
所蔵: ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版5: 幻想バレエ『ラ・ペリ』第二幕を踊るリュシアンとグリジ
作者: 不明
制作年: 1843年
所蔵: Musèe des beaux-arts, Paris

図版6: バレエ・パントマイム『シャクンタラ』のシャクンタラの衣装
作者: Alfred Albert
出版年: 1858年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版7: 『ジゼル』初演のポスター
制作者: パリ・オペラ座
制作年: 1841年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ


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2014年05月16日

第5回

図版1:ナイチンゲール1836rosignol1.jpg
図版1:バレエ『ナイチンゲール』で踊るグリジとペロー

☆運命の出会い【そのニ】 ミューズ、カルロッタ・グリジ☆
 さて、いよいよジュール・ペローと私、カルロッタ・グリジの運命の出会いが訪れます。フランスとイタリアで生を受けた男女が、全く違う人生を歩む中で遭遇するなんて奇跡のように感じられますが、人それぞれの日常こそ奇跡の連続なのかもしれません。
 いつの時代でも、振付家にとって創作意欲を刺激してくれるミューズ(女神)のような存在がいると思います。振付家ジュール・ペローにとって、私はミューズとして彼の創作活動の原動力となったのでした。
 ペローは、私と出会う以前から女王のようにバレエ界に君臨するマリー・タリオーニ、そのライバル、ファニー・エルスラーをはじめ、ファニー・チェリート、ルシール・グランなど、この時代を代表するバレリーナたちとも仕事をしました。
 私が他のバレリーナと違うところは、ペロー自身が私の才能を発見し、若い頃から育て上げたということでしょう。私は指導を受け、生活を共にする中で彼の踊りに対する考え方を身につけ、ペローの理想とする作品の世界を実現できたのかもしれません。

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図版2:ナポリのサン・カルロ歌劇場

 芸術の神様は、私とペローをナポリのサン・カルロ歌劇場に導きました。この劇場は1737年に開場し、この時代を代表する音楽の殿堂でした。ロッシーニやドニゼッティなど、数々の名作曲家たちがこの劇場で経験を積み、たくさんのオペラが誕生したのです。
 ペローのパリ・オペラ座との契約が切れる頃、私はちょうどイタリア各地を巡業していました。体調を崩して以来、ダンサーの道に進むか歌手の道に進むかを決めかねていた頃でした。
 1835年9月、この劇場でドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』が初演されました。私もそのオペラに出演することができ、歌も歌いました。その舞台をペローが見ていたのです。彼は、私に生徒になるように強く誘ってくれました。「踊りなさい、グリジ。グリジという名の歌手は、もうすでにいるではないか!」と。
 数ヶ月の訓練の後、1836年からは公私ともにパートナーとして、私の才能を試す旅が始まりました。ロンドンを皮切りに、ウィーン、ミュンヘン、ミラノ、ナポリなどで成功を収め、私は踊りに磨きをかけて行きました。
 図版1をご覧ください。これは、ペローと私がロンドンのキングズ劇場(1837年からハー・マジェスティーズ劇場と改称)で1836年の4月に『ナイチンゲール』というバレエ作品に出演した時の版画です。真ん中で踊っている二人の男女が見えますね。少しリフトされている女性が私で右横の男性がペローです。この作品で踊ったパ・ド・ドゥが、「踊るグリジ」のデビュー作となり、ロンドンの各紙面で話題になりました。
 でも、私たちの目指す場所は、もちろんパリでした。数年間のヨーロッパ巡業の後、1840年に新人バレリーナ、カルロッタ・グリジのパリ・デビューの準備が整いました。ルネサンス劇場でのオペラ・バレエ『ル・ジンガロ』で、ペローと私はパリで初共演しました。ペローは男性ダンサーの価値を観衆に認めさせ、私もこの成功をきっかけにオペラ座への道が拓かれたのです。

図版3:グリジ パキータ .jpg
図版3:『パキータ』を踊るグリジ

☆それぞれの道へ☆
 私は、1841年にパリ・オペラ座との契約が決まりました。主演した有名な『ジゼル』によって、パリ・オペラ座でのタリオーニとエルスラーの後継者となったのです。本当は恋人のペローも一緒にオペラ座に振付家として入団したかったのでしたが、その望みは絶たれました。ペローは、ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場を活動拠点にすることになりました。
 1842年、私とペローはロンドンで『ジゼル』を初演しました。私がジゼルを踊り、はじめてペローはアルブレヒトを踊りました。この配役はペローにとって理想的なものだったことでしょう。でも、私がパリ・オペラ座と契約したことで、私たちの私的な関係は微妙に変わってゆきました。
 ペローは、ロンドンで『エスメラルダ』や『パ・ド・カトル』などを創作し、私以外のバレリーナ、ファニー・チェリートやファニー・エルスラーとの仕事が増えてゆきました。私もオペラ座で、ジャン・コラリやジョセフ・マジリエなど別の振付家の作品を踊ることが多くなりました。
 マジリエ振付の1846年にパリ・オペラ座で初演された『パキータ』は、この時代に作られたもので、皆さんにもお馴染みの作品となっているものの一つでしょう。

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図版4:ペロー振付『オンディーヌ』で「影の踊り」を踊るファニー・チェリート

 ペローはロンドンでのシーズンの後、1848年からロシアのサンクト・ペテルブルクの帝室劇場のプリンシパル・ダンサーとして契約します。そして、1851年からはバレエ・マスターを務め、振付家として精力的に作品を発表しました。私も1849年にパリ・オペラ座での活動を終え、バレリーナとしての最後の時期をサンクト・ペテルブルクの帝室劇場で過ごし、ペローの作品を踊りました。
 私生活において、ペローは、ロシア人のバレリーナと結婚し家庭的には安定した生活を送っていたようです。しかし、ロシアでの仕事上の人間関係などに嫌気がさし、1861年に家族とともにパリに戻りました。

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図版5:1872年オペラ座で指導するルイ・メラント

☆バレエに尽くした生涯☆
 パリに戻って引退後も、ペローはバレエ芸術発展のための研究を続けていました。18世紀のバレエの改革者ジャン=ジョルジュ・ノヴェールの著作を研究し、さまざまな芸術家たちと交流を深め、低迷するフランス・バレエ界でバレエ芸術に多大な貢献をしたと思います。
 ペローの作品で後世に残っているものが少ないのはとても残念なことです。第4回でもお話ししましたが、ペローはロシアからパリに戻ってから、振付家として経験の浅かったオペラ座のルイ・メラントを助けていました。メラントとペローは、家族ぐるみの付き合いでもあり、バレエについても良く話し合いをしていました。
 皆さんは、パリ・オペラ座バレエ学校のレパートリーにもなっている『二羽の鳩』はご存じでしょうか。これはメラントの1886年の作品で、この『二羽の鳩』には、ペローのバレエに対する考え方や作風が色濃く反映されていると考えられます。
 70歳を過ぎてもペローはバレエ指導に携わり、優れた才能を見出し、生徒たちの成長を見守り続け、1892年に82歳でバレエ芸術に献身した人生に幕を降ろしたのでした。

図版6:二羽の鳩 1894−1919 リヨン市立図書館poster.jpg
図版6:メラント振付のバレエ『二羽の鳩』の版画

 次回は、初代アルブレヒト、パリ・オペラ座を代表するプリンシパル・ダンサーのリュシアン・プティパをご紹介したいと思います。ロシアでチャイコフスキーと一緒にバレエを作ったマリウス・プティパのお兄さんのお話です。お楽しみに!

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図版1: バレエ『ナイチンゲール』で踊るペロー(24歳)とグリジ(15歳)
作者: T.H.Jones
制作年: 1836年
所蔵: Bibliotheque de la danse Vincent- Warren Canada

図版2: 1906年ころのサン・カルロ歌劇場の写真カード
撮影: Giorgio Sommer
所蔵: 不明

図版3: ジョセフ・マジリエ振付『パキータ』を踊るグリジ
作者: H.Valentin
制作年: 1847年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ
 
図版4: ジュール・ペロー振付『オンディーヌ』の「影の踊り」を踊るファニー・チュリート
作者: Turner.G.A.
制作年: 1843年
所蔵: ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版5: オペラ座でバレリーナを指導するルイ・メラント 
作者: エドガー・ドガ 
制作年: 1872年
所蔵: オルセー美術館 パリ
(1986年からオルセー美術館、1911年から1986年まではルーヴル美術館)

図版6: バレエ『二羽の鳩』の版画
作者: ジュール・シェレ
制作年: 1894年〜1919年
所蔵: リヨン市立図書館 フランス
1886年のリトグラフが日本のサントリーミュージアム(天保山)に所蔵されています。


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