図版1『ラ・シルフィード』を踊るブルノンヴィルとグラーン
☆デンマーク・バレエの父オーギュスト・ブルノンヴィル☆
皆さま、こんにちは。前回も登場し、デンマーク人で初めてシルフィードを演じたルシール・グラーンです。今回は、私をバレリーナとして育て上げ、また、デンマークのバレエを総合芸術として国際的な水準に高めたオーギュスト・ブルノンヴィルについてお話したいと思います。
図版1をご覧いただきましょう。これは、ブルノンヴィルが演じている姿を描いたもので、1836年にコペンハーゲンで念願の『ラ・シルフィード』を上演した時の様子です。シルフィード役は私で、これは第二幕の最後の方のシーンです。青年ジェームズが愛するシルフィードを自分のものにしようと、魔女のマッジが密かに呪いをかけたヴェールでシルフィードを束縛してしまうというクライマックスです。ブルノンヴィルの肖像画などは目にする機会もあるかもしれませんが、彼が舞台で演じている姿を見ることは珍しいと思いましたのでご紹介いたしました。
図版2 オーギュスト・ブルノンヴィルの16歳の肖像画
☆芸術家ブルノンヴィルの生い立ち☆
オーギュスト・ブルノンヴィルの生まれた育った19世紀初頭のデンマークは、芸術的にとても充実した時代でした。ブルノンヴィルの友人でもあり、童話作家で詩人のハンス・クリスチャン・アンデルセンをはじめ、多くの才能あふれる芸術家たちが活躍し、刺激し合っていました。
実はアンデルセンもコペンハーゲンでオペラ歌手を目指した時期があり、ブルノンヴィルと同時期ではありませんが、デンマーク王立バレエ学校に在籍していたこともあると言われています。では、ブルノンヴィルの生い立ちを少しお話しします。
1805年8月21日、オーギュスト・ブルノンヴィルはコペンハーゲンで生まれました。父はフランス人ダンサーで振付家、母はスウェーデン人で、父親がスウェーデン王立劇場で働いていた頃に出会ったようです。フランス人とスウェーデン人の両親を持つとは、マリー・タリオーニと一緒ですね。関係があるかわかりませんが、のちにブルノンヴィルはパリ・オペラ座でマリーのお気に入りのパートナーとして踊ることになるのです。
父アントワーヌはストックホルムで働いた後、1795年からコペンハーゲンの王立バレエ団で仕事をし、バレエ学校でも指導していました。オーギュストは父の手ほどきを受け、その後、デンマーク王立バレエ団の設立者で監督だったイタリア人のヴィンチェンツォ・ガレオッティの指導を受けます。
同時代に活躍した友人の振付家ジュール・ペロー(コラム第4回参照)と同じように、ブルノンヴィルは幼いころからさまざまなジャンルの舞台に出演していました。歌を歌ったり、演じたりしながら舞台での作法を学んだのです。これが彼の振付家、演出家としての土台となったと考えられます。
1813年、まだ学生の頃にガレオッティ先生の振付作品で、コペンハーゲン王立劇場でデビューします。その後、1820年から1823年まで3年間王立バレエ団に在籍しました。1824年からはパリで修業し、高名なバレエ教師オーギュスト・ヴェストリスの指導を受け、1826年にはヴェストリスの弟子としてバレエの殿堂パリ・オペラ座の試験に合格し、1830年までパリを拠点に活躍し、国際的な名声を得たのです。
しかし、ブルノンヴィルは1829年にゲスト・アーティストとしてコペンハーゲンの王立劇場に戻り、翌年ダンサー兼監督となりました。その頃の王立バレエ団の低迷した様子を見て、パリの最新のバレエ事情を知っているオーギュストは、デンマークにおけるバレエ芸術の向上のために人生を捧げることを決意したのです。
1848年にはダンサーを引退し、1877年まで監督としてバレエ団を国際的に通用するレベルにまで育成し、1879年コペンハーゲンで亡くなりました。
皮肉にも、デンマーク・バレエの父はデンマーク人ではありませんでしたが、このように外国人によってバレエ芸術が改革されるという歴史は、バレエ芸術の発展の中で繰り返されて行くのです。
図版3 ブルノンヴィル振付『ゼンツァーノの花祭り』1900年頃の写真
☆ブルノンヴィルの作風とバレエ哲学☆
オーギュスト・ブルノンヴィルは生涯で、およそ50以上のバレエ作品やオペラの挿入作品を世に送りだしました。代表作で、皆さんの時代でもご覧になれるものとして『ラ・シルフィード』(1836年初演)、『ナポリ、あるいは漁師と花嫁』(1842年初演)、『コンセルヴァトワール、または新聞広告による結婚申し込み』(1849年初演)、『ゼンツァーノの花祭り』(1858年初演)などがあります。
彼はバレエ作品や踊り手に対して、非常に高い理想を抱いていました。実は、私が1839年にコペンハーゲンを去ったのも、バレエ団との契約の問題もありましたが、彼の理想とするバレエと指導に対して疑問を抱いたのも理由の一つでした。
ここでブルノンヴィルが1861年に書いた「バレエの使命について」という文章の一部をお伝えします。
「舞踊は、才能、知識、能力が必要であるから芸術なのである。造形美のみならず、詩的、ドラマ的な表現の理想を追求するから芸術なのである。舞踊が掲げる美とは、趣味とか楽しみとかいった曖昧な理念に基づくものではない。それは自然の不変の原理に基づいている。芸術の使命は、特に劇場においては、(それが喜劇であろうと悲劇であろうと)知識の向上、精神の強化、そして感性を甦らせることである。・・・」(注1)
ブルノンヴィルは、18世紀のバレエ教師で父アントワーヌの先生でもあったジャン=ジョルジュ・ノヴェールの影響を受け、「演劇としてのバレエ」という理念のもとにデンマークのバレエを改革しようと考えました。
代表作と言われる『ラ・シルフィード』はもとの台本が自作のものではなかったため、悲劇的な結末になっていますが、ブルノンヴィルの作品の特徴としては、人々の幸福感、人間存在への礼賛が根底にあり、ハッピーエンドを好みました。
そして、彼はロマンティック・バレエ時代にあまり評価されていない男性舞踊手に活躍の場を与え、舞台上での男女平等を求めました。パ・ド・ドゥでは高度なリフトなどがあるわけではなく、男女が同じ振りで会話をするような優しい印象を受けます。また、生き生きとした群舞の動きを重視し、フォーメーションの美しさも魅力です。
ブルノンヴィルは、音楽と物語と踊りをバランスよく融合させ、身体表現によって物語が展開する「演劇としてのバレエ」というバレエ哲学を舞台上に具現化したのでした。また、ダンサーの社会的地位の向上のために尽力し、王立バレエ学校の生徒向けに体系的に技術を身に着けるシステムを整えました。これがブルノンヴィル・スタイルと言われるものとなり、後世に受け継がれることとなったのです。
図版4 ブルノンヴィル振付『コンセルヴァトワール』写真提供 井上バレエ団
☆ロマンティックは終わらない☆
1830年代から1850年代までヨーロッパ全域で花形バレリーナが活躍し、華々しく発展したロマンティック・バレエも、19世紀後半には少しずつ勢いがなくなっていきました。しかし、それは消滅したわけではなく、中心地が移動したに過ぎません。
また、パリやロンドンといったバレエ人気が低迷していた街でも、多くのバレエ教師や振付家たちが新作を提供し、劇場や芸術を守っていたことを忘れないでくださいね。彼らの努力があってこそ、低迷期を乗り越え、芸術の花が咲く時期が再び訪れるのですから。
ヨーロッパでバレエ人気が陰りを見せるころ、ロシアではバレエ芸術が華やかな時代を迎えようとしていました。ロシアでのバレエ芸術の繁栄を準備したのは、イタリア人やフランス人の舞踊教師や振付家たち、またバレリーナたちでした。
このコラムでも何度も登場したジュール・ペロー、アルチュール・サン=レオンなどがロシアに渡り、マリー・タリオーニ、ファニー・エルスラー、カルロッタ・グリジなどのバレリーナたちもバレエの素晴らしさをロシアに紹介していました。
その後、もっともロシアでバレエ芸術に貢献したフランス人マリウス・プティパが登場します。マリウスもロマンティック・バレエの申し子の一人と言ってもよいでしょう。1847年にマリウスは、ロシアのサンクト・ペテルブルクの帝室劇場と最初はダンサーとして契約します。その後、振付家ジュール・ペローの助手を経て、1862年にバレエ・マスター、1869年には主任バレエ・マスターとなり振付家としての責任も担うようになります。自分自身の作品のほかに、パリで初演されたバレエ作品『ジゼル』、『海賊』、『パキータ』などを再構成し、ロシアの帝室劇場にフランス・バレエ界の雰囲気を伝えたのです。着々と経験を積みながらマリウスの帝室劇場での地位も安定し、多くの作品を積極的に創作しました。
そして、皆様もよくご存じの歴史的に最も有名な才能の出会いが訪れます。そう、ロシアを代表する作曲家チャイコフスキーと振付家マリウス・プティパの出会いです。この天才同士の化学反応によってロシアのバレエ芸術は黄金時代を迎え、「バレエ大国ロシア」が誕生するのです。
デンマークとロシアに受け継がれたロマンティック・バレエの精神は、時代を超え、国を超えて21世紀にまで伝承されているのです。そう考えると、バレエは時空を超えた大スペクタクルですね!ロマンティックは、まだまだ終わりません。その姿や印象は変わるかもしれませんが、バレエの本質にはロマンティックな精神が宿っているのですもの。
さあ、夏休みですね。そして、バレエセミナーも始まります。皆さんが学んでいるバレエは、歴史上に名を残したダンサーたちも同じことを繰り返し練習してきたことです。そのことに気付くと、毎日のレッスンもまた違った感動にあふれることでしょう。
コラムも夏休みをいただきます。また夏休み明けに、今度は誰がお出迎えするでしょうか。
どうぞお楽しみに!ごきげんよう。
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(注1)ジャック・アンダーソン著、湯河京子訳
『バレエとモダン・ダンス〜その歴史』音楽の友社 1993年刊
P.149からの引用
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図版1 『ラ・シルフィード』を演じるオーギュスト・ブルノンヴィルとルシール・グラーン
作者:Christian Bruun
制作年:1836年
所蔵:コペンハーゲン王立図書館 デンマーク
図版2 オーギュスト・ブルノンヴィルの16歳の肖像画(メダル)
作者:Jacques Turretin
制作年:1821〜22年
所蔵:個人所蔵
図版3 『ゼンツァーノの花祭り』を踊るHans BeckとValborg Borchsenius
撮影者:不明
撮影年:1900年頃
所蔵:不明
図版4 『コンセルヴァトワール、または新聞広告による結婚申し込み』
公益財団法人井上バレエ団 2014年7月公演から
撮影日:2014年7月19日
場所:文京シビックホール大ホール
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