2014年07月30日

第10回

図版1ブルノンヴィルとグラーン02dancer2.jpg
図版1『ラ・シルフィード』を踊るブルノンヴィルとグラーン

☆デンマーク・バレエの父オーギュスト・ブルノンヴィル☆
 皆さま、こんにちは。前回も登場し、デンマーク人で初めてシルフィードを演じたルシール・グラーンです。今回は、私をバレリーナとして育て上げ、また、デンマークのバレエを総合芸術として国際的な水準に高めたオーギュスト・ブルノンヴィルについてお話したいと思います。
 図版1をご覧いただきましょう。これは、ブルノンヴィルが演じている姿を描いたもので、1836年にコペンハーゲンで念願の『ラ・シルフィード』を上演した時の様子です。シルフィード役は私で、これは第二幕の最後の方のシーンです。青年ジェームズが愛するシルフィードを自分のものにしようと、魔女のマッジが密かに呪いをかけたヴェールでシルフィードを束縛してしまうというクライマックスです。ブルノンヴィルの肖像画などは目にする機会もあるかもしれませんが、彼が舞台で演じている姿を見ることは珍しいと思いましたのでご紹介いたしました。

図版2ブルノンヴィル肖像05bournon-turretin.jpg
図版2 オーギュスト・ブルノンヴィルの16歳の肖像画

☆芸術家ブルノンヴィルの生い立ち☆
 オーギュスト・ブルノンヴィルの生まれた育った19世紀初頭のデンマークは、芸術的にとても充実した時代でした。ブルノンヴィルの友人でもあり、童話作家で詩人のハンス・クリスチャン・アンデルセンをはじめ、多くの才能あふれる芸術家たちが活躍し、刺激し合っていました。
 実はアンデルセンもコペンハーゲンでオペラ歌手を目指した時期があり、ブルノンヴィルと同時期ではありませんが、デンマーク王立バレエ学校に在籍していたこともあると言われています。では、ブルノンヴィルの生い立ちを少しお話しします。
 1805年8月21日、オーギュスト・ブルノンヴィルはコペンハーゲンで生まれました。父はフランス人ダンサーで振付家、母はスウェーデン人で、父親がスウェーデン王立劇場で働いていた頃に出会ったようです。フランス人とスウェーデン人の両親を持つとは、マリー・タリオーニと一緒ですね。関係があるかわかりませんが、のちにブルノンヴィルはパリ・オペラ座でマリーのお気に入りのパートナーとして踊ることになるのです。
 父アントワーヌはストックホルムで働いた後、1795年からコペンハーゲンの王立バレエ団で仕事をし、バレエ学校でも指導していました。オーギュストは父の手ほどきを受け、その後、デンマーク王立バレエ団の設立者で監督だったイタリア人のヴィンチェンツォ・ガレオッティの指導を受けます。
 同時代に活躍した友人の振付家ジュール・ペロー(コラム第4回参照)と同じように、ブルノンヴィルは幼いころからさまざまなジャンルの舞台に出演していました。歌を歌ったり、演じたりしながら舞台での作法を学んだのです。これが彼の振付家、演出家としての土台となったと考えられます。
 1813年、まだ学生の頃にガレオッティ先生の振付作品で、コペンハーゲン王立劇場でデビューします。その後、1820年から1823年まで3年間王立バレエ団に在籍しました。1824年からはパリで修業し、高名なバレエ教師オーギュスト・ヴェストリスの指導を受け、1826年にはヴェストリスの弟子としてバレエの殿堂パリ・オペラ座の試験に合格し、1830年までパリを拠点に活躍し、国際的な名声を得たのです。
 しかし、ブルノンヴィルは1829年にゲスト・アーティストとしてコペンハーゲンの王立劇場に戻り、翌年ダンサー兼監督となりました。その頃の王立バレエ団の低迷した様子を見て、パリの最新のバレエ事情を知っているオーギュストは、デンマークにおけるバレエ芸術の向上のために人生を捧げることを決意したのです。
 1848年にはダンサーを引退し、1877年まで監督としてバレエ団を国際的に通用するレベルにまで育成し、1879年コペンハーゲンで亡くなりました。
 皮肉にも、デンマーク・バレエの父はデンマーク人ではありませんでしたが、このように外国人によってバレエ芸術が改革されるという歴史は、バレエ芸術の発展の中で繰り返されて行くのです。

図版3ブルノンヴィル花祭Flower_Festival_01.jpg
図版3 ブルノンヴィル振付『ゼンツァーノの花祭り』1900年頃の写真

☆ブルノンヴィルの作風とバレエ哲学☆
 オーギュスト・ブルノンヴィルは生涯で、およそ50以上のバレエ作品やオペラの挿入作品を世に送りだしました。代表作で、皆さんの時代でもご覧になれるものとして『ラ・シルフィード』(1836年初演)、『ナポリ、あるいは漁師と花嫁』(1842年初演)、『コンセルヴァトワール、または新聞広告による結婚申し込み』(1849年初演)、『ゼンツァーノの花祭り』(1858年初演)などがあります。
 彼はバレエ作品や踊り手に対して、非常に高い理想を抱いていました。実は、私が1839年にコペンハーゲンを去ったのも、バレエ団との契約の問題もありましたが、彼の理想とするバレエと指導に対して疑問を抱いたのも理由の一つでした。
 ここでブルノンヴィルが1861年に書いた「バレエの使命について」という文章の一部をお伝えします。
 「舞踊は、才能、知識、能力が必要であるから芸術なのである。造形美のみならず、詩的、ドラマ的な表現の理想を追求するから芸術なのである。舞踊が掲げる美とは、趣味とか楽しみとかいった曖昧な理念に基づくものではない。それは自然の不変の原理に基づいている。芸術の使命は、特に劇場においては、(それが喜劇であろうと悲劇であろうと)知識の向上、精神の強化、そして感性を甦らせることである。・・・」(注1)
 ブルノンヴィルは、18世紀のバレエ教師で父アントワーヌの先生でもあったジャン=ジョルジュ・ノヴェールの影響を受け、「演劇としてのバレエ」という理念のもとにデンマークのバレエを改革しようと考えました。
 代表作と言われる『ラ・シルフィード』はもとの台本が自作のものではなかったため、悲劇的な結末になっていますが、ブルノンヴィルの作品の特徴としては、人々の幸福感、人間存在への礼賛が根底にあり、ハッピーエンドを好みました。
 そして、彼はロマンティック・バレエ時代にあまり評価されていない男性舞踊手に活躍の場を与え、舞台上での男女平等を求めました。パ・ド・ドゥでは高度なリフトなどがあるわけではなく、男女が同じ振りで会話をするような優しい印象を受けます。また、生き生きとした群舞の動きを重視し、フォーメーションの美しさも魅力です。
 ブルノンヴィルは、音楽と物語と踊りをバランスよく融合させ、身体表現によって物語が展開する「演劇としてのバレエ」というバレエ哲学を舞台上に具現化したのでした。また、ダンサーの社会的地位の向上のために尽力し、王立バレエ学校の生徒向けに体系的に技術を身に着けるシステムを整えました。これがブルノンヴィル・スタイルと言われるものとなり、後世に受け継がれることとなったのです。

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図版4 ブルノンヴィル振付『コンセルヴァトワール』写真提供 井上バレエ団
 
☆ロマンティックは終わらない☆
 1830年代から1850年代までヨーロッパ全域で花形バレリーナが活躍し、華々しく発展したロマンティック・バレエも、19世紀後半には少しずつ勢いがなくなっていきました。しかし、それは消滅したわけではなく、中心地が移動したに過ぎません。
 また、パリやロンドンといったバレエ人気が低迷していた街でも、多くのバレエ教師や振付家たちが新作を提供し、劇場や芸術を守っていたことを忘れないでくださいね。彼らの努力があってこそ、低迷期を乗り越え、芸術の花が咲く時期が再び訪れるのですから。
 ヨーロッパでバレエ人気が陰りを見せるころ、ロシアではバレエ芸術が華やかな時代を迎えようとしていました。ロシアでのバレエ芸術の繁栄を準備したのは、イタリア人やフランス人の舞踊教師や振付家たち、またバレリーナたちでした。
 このコラムでも何度も登場したジュール・ペロー、アルチュール・サン=レオンなどがロシアに渡り、マリー・タリオーニ、ファニー・エルスラー、カルロッタ・グリジなどのバレリーナたちもバレエの素晴らしさをロシアに紹介していました。
 その後、もっともロシアでバレエ芸術に貢献したフランス人マリウス・プティパが登場します。マリウスもロマンティック・バレエの申し子の一人と言ってもよいでしょう。1847年にマリウスは、ロシアのサンクト・ペテルブルクの帝室劇場と最初はダンサーとして契約します。その後、振付家ジュール・ペローの助手を経て、1862年にバレエ・マスター、1869年には主任バレエ・マスターとなり振付家としての責任も担うようになります。自分自身の作品のほかに、パリで初演されたバレエ作品『ジゼル』、『海賊』、『パキータ』などを再構成し、ロシアの帝室劇場にフランス・バレエ界の雰囲気を伝えたのです。着々と経験を積みながらマリウスの帝室劇場での地位も安定し、多くの作品を積極的に創作しました。
 そして、皆様もよくご存じの歴史的に最も有名な才能の出会いが訪れます。そう、ロシアを代表する作曲家チャイコフスキーと振付家マリウス・プティパの出会いです。この天才同士の化学反応によってロシアのバレエ芸術は黄金時代を迎え、「バレエ大国ロシア」が誕生するのです。
 デンマークとロシアに受け継がれたロマンティック・バレエの精神は、時代を超え、国を超えて21世紀にまで伝承されているのです。そう考えると、バレエは時空を超えた大スペクタクルですね!ロマンティックは、まだまだ終わりません。その姿や印象は変わるかもしれませんが、バレエの本質にはロマンティックな精神が宿っているのですもの。
 
 さあ、夏休みですね。そして、バレエセミナーも始まります。皆さんが学んでいるバレエは、歴史上に名を残したダンサーたちも同じことを繰り返し練習してきたことです。そのことに気付くと、毎日のレッスンもまた違った感動にあふれることでしょう。
 コラムも夏休みをいただきます。また夏休み明けに、今度は誰がお出迎えするでしょうか。
 どうぞお楽しみに!ごきげんよう。

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(注1)ジャック・アンダーソン著、湯河京子訳
『バレエとモダン・ダンス〜その歴史』音楽の友社 1993年刊
P.149からの引用

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図版1 『ラ・シルフィード』を演じるオーギュスト・ブルノンヴィルとルシール・グラーン
作者:Christian Bruun
制作年:1836年
所蔵:コペンハーゲン王立図書館 デンマーク

図版2 オーギュスト・ブルノンヴィルの16歳の肖像画(メダル)
作者:Jacques Turretin
制作年:1821〜22年
所蔵:個人所蔵

図版3 『ゼンツァーノの花祭り』を踊るHans BeckとValborg Borchsenius
撮影者:不明
撮影年:1900年頃
所蔵:不明

図版4 『コンセルヴァトワール、または新聞広告による結婚申し込み』
公益財団法人井上バレエ団 2014年7月公演から
撮影日:2014年7月19日
場所:文京シビックホール大ホール

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2014年07月21日

第9回

図版1:ルシール・グラーン肖像N8426468_JPEG_1_1DM.jpg
図版1 ルシール・グラーンの肖像画

✫デンマークの舞姫ルシール・グラーン✫
 グーテンターク!コペンハーゲン生まれのデンマーク人バレリーナ、ルシール・グラーンと申します。デンマーク人なのにドイツ語でご挨拶とは何ごとかと思われましたか?これには、私の「国際的スターとしての秘密」が隠されているので、のちほどお話します。
 さて、このバレエ史コラムも早いもので夏休み前のまとめの時期となりました。ここで、第1回から第8回までの復習を兼ねて、ロマンティック・バレエがどのように後世に受け継がれていったかということを、私ルシール・グラーンがお話させていただきます。
 私は、デンマーク王立バレエ団初の国際的に活躍したバレリーナと言われています。コペンハーゲンでバレエの基礎を学び、王立劇場でダンサーとしてデビューしました。その後、パリ・オペラ座を皮切りに、故国デンマークを離れ、ヨーロッパ各地で踊る道を選びました。
 ロマンティック・バレエの時代を華やかに彩ったバレリーナや精力的に作品を提供しバレリーナの魅力を引き出した振付家の活動を見ても、一か所の劇場に留まることはなく、国境を超えてさまざまな劇場で働いていました。芸術家にとっては、いつの時代も「舞台は世界」なのです。

✫デンマークの舞姫から国際的スターへ✫
 私ルシール・グラーンは、コラム第1回で紹介されたバレリーナの競演『パ・ド・カトル』で初登場しています。タリオーニお姉さま以外の3人のバレリーナたちが踊る順番でもめた時に、一番最初にソロを踊ることを引き受けた最年少のバレリーナです。
 この『パ・ド・カトル』のプロデューサーだった、ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場の支配人ベンジャミン・ラムリーによりますと、「神秘的なタリオーニのスタイルと人間的なチェリートのスタイル、グリジの快活さ、ファニー・エルスラーの演技力を兼ね備えたバレリーナ」というのが私への評価でした。ロマンティック・バレエの名だたるバレリーナのあらゆる特質を兼ね備えた最強のバレリーナということになりますよね。その評価の割には、他のバレリーナほど目立たない印象だと思いますので、少し自己紹介させていただきます!
 私は、デンマークのコペンハーゲンに1819年6月30日に生まれました。カルロッタ・グリジと2日違いの年下です。先ほども申し上げましたが、コペンハーゲンの王立バレエ学校で基礎を学び、はじめの先生がピエール・ラルシェで、1829年にはラルシェ先生の作品(原振付は、マリーの父フィリッポ・タリオーニ)で舞台に立ちました。次に指導を受けたのが、後にデンマーク・バレエの基礎を確立するオーギュスト・ブルノンヴィルでした。私はブルノンヴィルの指導で、本格的にバレリーナへの道を歩むようになり、彼の作品の創造力のミューズ(女神)となったのです。
 1834年、まだ学生だった頃にブルノンヴィルは、私をパリに連れてゆきました。それは、ロマンティック・バレエの女王マリー・タリオーニの演じる『ラ・シルフィード』を私に見せるためでした。ブルノンヴィルは、パリ・オペラ座で踊っていた頃、マリーと良くパートナーを組んでいたそうです。ブルノンヴィルは、マリー・タリオーニの踊る『ラ・シルフィード』に感銘を受け、当時お気に入りの弟子だった私を主役にしてこの作品をデンマークで上演しようと考えていました。
 パリから戻り、私はコペンハーゲン王立劇場で1834年に公式にデビューし、バレエ団員となりました。1836年には、ブルノンヴィルの理想を実現するかのごとく『ラ・シルフィード(注1)』でタイトル・ロールを踊り大成功を収めました。1837年には王立劇場のプリンシパルに昇格し、私はコペンハーゲンで大人気のバレリーナとなりました。
 しかし、この頃から私は、少しずつ先生であるブルノンヴィルや王立劇場に対し不満を抱くようになりました。先生であるブルノンヴィルとは個人的な感情のもつれや芸術上の考え方の違いが出てきました。
 私は少しコペンハーゲンを離れたい気持ちになり、家族も私を支えてくれました。パリで指導を受けていたバレエの先生の計らいもあり、1838年にパリ・オペラ座でデビューすることができたのです。
 私はパリの観客にも受け入れられ、順風満帆なダンサー人生のスタートを切ったかのように感じられました。しかし、王立バレエ団は、契約期間中に他のバレエ団での活動を認めないということで、結局私は1839年にコペンハーゲンを離れ、国際的に活躍の場を求める道を歩むことになったのです。

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図版2 『ラ・シルフィード』を演じるグラーン

✫パリ・オペラ座でシルフィードを踊る✫
 1839年、私に大きなチャンスが訪れます。芸術の殿堂パリ・オペラ座で、『ラ・シルフィード』を踊ることになったのです。もともとシルフィードを踊る予定だったファニー・エルスラーが体調を崩し、突如舞い込んできたお話でした。予期せぬ出来事だったので、私は十分なリハーサルをせずにシルフィード役を踊ったのです。
 この役は、マリー・タリオーニとファニー・エルスラーという二大バレリーナによって、完全にイメージが出来上がっていました。その大役に挑んだ私の勇気を、かの劇作家テオフィル・ゴーチエも讃えてくれました。この年、私はファニー・エルスラーのライバルとしてパリ・オペラ座のソリストに迎えられ1840年まで踊ることになったのです。
 また、1839年から1847年にかけて、ゲスト・バレリーナとしてハンブルク、サンクト・ペテルグルク、ローマ、ヴェニス、ブリュッセルとヨーロッパ各地の舞台で踊りました。1840年パリ・オペラ座を離れ、次に私が向かったのはパリと並んでバレエ人気が高かったロンドンでした。

✫まさか!ロンドンでの苦戦✫
 ロンドンでは、師匠ブルノンヴィルの友人でバレエの魔術師ジュール・ペローが、バレエ芸術の普及に貢献していました。彼は、他のバレリーナやダンサーと同じように私の個性を引き出すべく、ドラマティックな表現を十分に発揮できる作品を提供してくれました。
 私がロンドンにやって来る前に、この時代の名だたるバレリーナたちがロンドンでの名声を獲得し、ペロー・マジックによって芸術家としての魅力に磨きをかけていったのです。
 その波に乗って、私もロンドンの観客に迎えられると思っていましたが、どうやら私はロンドンの観客の好みには合わなかったようで、新聞での批評も不本意なものでした。私自身もペローに作品のアイディアを提案し、ロンドンのお客様に受け入れられるように努力をしました。ある意味、運が悪かったのかもしれません。タリオーニ、エルスラー、グリジ、チェリートと鮮烈な個性を持ったバレリーナたちの後に、いくら私が優れた演技力と技術を兼ね備えたダンサーであっても、インパクトにかけたのでしょう。
 それでも、ペローは私の演技力を最大限に作品の中に反映してくれたのです。その中で、皆さんにご紹介したいのは美しいリトグラフ(版画)が残っている『エオリーヌ、あるいはは森の精』と『カタリーナ、あるいは盗賊の娘』です。

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図版3  ペロー振付『エオリーヌ』で森の精の姿のグラーン

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図版4  ペロー振付『エオリーヌ』でマズルカを踊るペロー(悪魔役)と森の精グラーン

 1845年、『エオリーヌ、もしくは森の精』は、あの有名な『パ・ド・カトル』の数ヶ月前に初演されました。主役のエオリーヌは、シレジア王子の父と木の妖精の母との間に生まれた森の妖精です。ペローは、この役の少女の二面性、つまり命ある人間と神秘的な森の精という二面性を表現するチャンスを私に与えてくれました。
 一方、『カタリーナ、あるいは盗賊の娘』は、盗賊団の女首領カタリーナと画家の恋人、そして盗賊団の部下との三角関係が主題でした。

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図版5 『カタリーナ』武装したカタリーナを演じるグラーン

 図版5は、カタリーナを演じる私の姿です。カタリーナの女性としての優しさと柔らかさをかもし出すたたずまいと盗賊団の首領として勇ましく武装した外見とのコントラストが良く描かれていています。ロンドンでは作品には恵まれたものの、バレリーナとしては苦戦を強いられました。それでも、次第にロンドンの観客も私を認めてくれるようになり、私は1848年までロンドンを拠点に踊っていました。
 そして、1848年に私はドイツ各地を巡る旅に出ました。私の人生の大きな転機が再び訪れます。ミュンヘンに家を持ち、デンマークとドイツとの戦争に翻弄されながらも、オーストリア人歌手と結婚し、私はドイツを第二の故郷とする道を選んだのです。
 
 次回は、デンマークのバレエ文化を改革し、ロマンティック・バレエの伝統を受け継いだオーギュスト・ブルノンヴィルについてお話いたします。お楽しみに!ごきげんよう。


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(注1)オーギュスト・ブルノンヴィル版『ラ・シルフィード』について
 1836年11月28日に、デンマークのコペンハーゲン王立劇場で初演された『ラ・シルフィード』は、オーギュスト・ブルノンヴィルが振り付けし、音楽をデンマーク人の作曲家ヘルマン・レーヴェンスキョルが担当しました。
 ブルノンヴィルとルシール・グラーンがパリ・オペラ座で見たものは、マリー・タリオーニの父フィリッポが台本と振付を担当し、ジャン・シュネゾフェール(資料によってはシュナイツホファー)が音楽を作曲したものでした。ブルノンヴィルは、フィリッポの台本を踏襲し、主役の青年ジェームズの踊りをかなり発展させた形で、自作の『ラ・シルフィード』を上演ました。最初は音楽もタリオーニ版のシュネゾフェールのものを使用したかったようですが経済的な理由で楽譜を入手できず、デンマークの作曲家レーヴェンスキョルに頼んだのです。
 第2回のコラムの【豆知識】にも書きましたが、『ラ・シルフィード』には主にパリ・オペラ座で上演されるフィリッポ・タリオーニ版とデンマーク王立バレエ団で上演されるオーギュスト・ブルノンヴィル版があります。この2種類の『ラ・シルフィード』は、現在も見る機会があるので見比べてみるのも楽しいですね。


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図版1 ルシール・グラーンの肖像画
作者:Henri Grévedon
出版年:1845年
所蔵:フランス国立図書館 パリ
 
図版2 パリ・オペラ座で『ラ・シルフィード』を演じるグラーン
作者:不明
出版年:1836年
所蔵:フランス国立図書館 パリ

図版3 ペロー振付『エオリーヌ』で森の妖精の姿のグラーン
作者:S.M.Joy(artist)、Edward Morton(lithographer)
出版年:1845年7月14日
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
 
図版4 ペロー振付『エオリーヌ』でマズルカをペロー(悪魔役)と踊る森の精グラーン
作者:John Brandard(artist)
出版年:1845年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
 
図版5 ペロー振付『カタリーナ』で武装したカタリーナを演じるグラーン
作者:John Brandard(artist)
出版年:1846年
所蔵:ヴィクトリ&アルバート博物館 ロンドン


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2014年06月27日

第8回

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図版1『ラ・ヴィヴァンディエール(従軍商の娘)』でルドヴァを踊るチェリートとサン=レオン 

☆イケメンな奇才!アルチュール・サン=レオン☆
 ごきげんいかがですか。ロンドンで人気絶頂のファニー・チェリートです!今回は、私の理想のパートナーとなるアルチュール・サン=レオンについてお話したいと思います。
 「サン=レオンって誰?」という感じでしょうか。皆さんの時代ですと、サン=レオンは『コッペリア』の振付家として有名な人です。
 第7回でお話しましたように、わたしはジュール・ペローのマジックのおかげで、ロンドンの観衆をすっかり魅了していました。年齢的にも20代半ばで、特に身体能力の面で申し分のない時期でした。
 ペローという振付家によって、私は欠点をも魅力に変えられ、バレリーナとしての命を吹き込んでもらいました。同時にペローは、パートナーとしても私を支えてくれました。ただ、ペローもダンサーとしては全盛期を過ぎていましたので、私には新たなエネルギーが必要なころでした。
 そんな中、フランス人の新星アルチュール・サン=レオンが1843年にハー・マジェスティーズ劇場に現れます。1843年から私たちの8年間に及ぶ、パートナーとしての活動が始まりました。グリジとペローよろしく、恋人同士にもなり(どちらかというと、サン=レオンが猛アタックして)、1845年にはパリで結婚しました。
 ペローも、彗星のごとく現れたサン=レオンの才能をすぐに見抜き、彼の能力を引き出すような作品を作り、自分の後継者としてサン=レオンを認めていたことでしょう。素晴らしい技術を持ち、振り付けの才能もあり、それに加えてヴァイオリンを巧みに演奏し作曲も手がける多才ぶりでした。
 サン=レオンがロンドン・デビューした当時の新聞タイムズは、彼の目を見張るピルエットや活気のあるみずみずしい踊りを古代ギリシャの英雄ヘラクレスの遊戯にたとえ、類まれな才能と彼を賞賛しました。

☆テクニシャン・コンビの化学反応☆
 サン・レオンの新聞評からも、彼が身体能力に恵まれたテクニックに強いダンサーであることが伺えます。これは私にも共通することで、サン・レオンはさしずめ「男版チェリート」といった存在でした。
 ロンドン・デビューして間もない有望株のサン=レオンと私は、1843年にペローが振り付けた『楽園の美女たち』というトルコを題材にした作品で、パ・ド・ドゥを踊りました。同年、その他の作品でも共演し、一気にパートナーとしての信頼関係を築いていきました。
 翌年1844年には、私はサン=レオンと一緒に振り付けもして、東欧を背景にした『ラ・ヴィヴァンディエール(従軍商の娘)』という一幕ものの作品で大成功を収めました。これは、皆さんの時代でも復元されてご覧になれる数少ないサン=レオンの作品の一つです。
 彼の創作の特徴は、さまざまな地域の民族舞踊をバレエの中に取り入れて、色彩豊かに仕上げるところでした。すでに他のロマンティック・バレエ時代の振付家たちにとっても、民族舞踊は非常に重要な要素の一つでしたが、サン=レオンはさまざまな舞踊の特色を活かし、バレエの世界に新風を吹き込みました。この伝統は、のちのマリウス・プティパにも踏襲されていきます。
 図版1をご覧ください。これは、『ラ・ヴィヴァンディエール』で、私とサン=レオンが踊った「ルドヴァ」と呼ばれるボヘミア地方発祥のポルカです。恋人たちが、結婚できる喜びをステップで語り合うように表現した踊りで、私たち二人の高度なテクニックと軽やかでしなやかな動きを十分に発揮した踊りでした。

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図版2『パリスの審判』を踊るサン=レオン、チェリート、タリオーニ、グラーン

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図版3パリ・オペラ座デビュー作品『大理石の娘』を踊るチェリートとサン=レオン

☆芸術の殿堂パリ・オペラ座へ☆
 1843年から1847年まではロンドンを拠点に、その後1847年には、パリ・オペラ座を拠点に私たちは活動をすることになります。
 ロンドン時代とパリ時代では、徐々に二人の関係も変わってゆきました。ロンドンでは、私はすでに国際的なスターで、それをサン=レオンが後から追いかけるという感じでした。
 ただ、彼の活躍ぶりには眼を見張るものがありました。魔術師ペローの魔法は、サン=レオンにもかけられました。
 図版2をご覧いただくと、これもペローの1846年の作品です。サン=レオンが私とタリオーニお姉さま、そしてデンマークの期待の新人ルシール・グラーンという三人の超花形バレリーナたちと対等に踊っているではありませんか。
 私たちは、ロンドンで大成功を収めパリに向かいました。この頃のパリ・オペラ座が興味を持っていたのは、私より振付家サン=レオンでした。私は30歳になり、機敏な身のこなしや女性的な魅力は、少しずつ下り坂にさしかかっていました。
 パリ・オペラ座は、往年のタリオーニVSファニー・エルスラーのライバル対決やカルロッタ・グリジが『ジゼル』で華々しくデビューした頃に比べると、だんだんとバレエの活気がなくなりつつありました。
 サン=レオンは、自らも創作しましたが、アレンジの才能に恵まれていました。その分仕事が早く、作品を多く仕上げることができたのです。私たちのパリ・デビュー作『大理石の娘(図版3)』も、もともとペローが1842年に振り付けた『アルマ、もしくは火の娘』のリメイクで、これは私の魅力を最大限に披露するにはもってこいの作品でした。
 1848年には、『ラ・ヴィヴァンディエール』をパリで再演しました。お得意のピルエットや軽やかな足さばきといった高度な技術と東欧の空気を運ぶエネルギッシュな踊りで、私たちはパリでも大喝采を浴びたのです。
 サン=レオンにとって、才能を余すことなく発揮した代表作は、1849年の『悪魔のヴァイオリン』でした。自ら作曲しヴァイオリンを奏で、そして踊ったのです。彼のパリ・オペラ座での地位は安定してゆきました。1851年の『雛菊(図版4)』は私への最後の振付作品となり、私たちの私的な関係も幕を閉じました。
 私はパリ・オペラ座に1854年まで残り、作家テオフィル・ゴーチエが台本を書いた『ジェンマ』という、故郷イタリアを舞台にした大作を手がけました。パリ・オペラ座の後は、バレエ人気が下り坂のロンドンに戻り、1856年にはモスクワでアレクサンドル二世の即位祝賀行事に参加し、翌年40歳で引退しました。

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図版4『雛菊』を踊るチェリート

☆舞踊記録システムの考案☆
 一方、サン=レオンは契約上の問題で、1852年にオペラ座を去ります。この年に、彼は一冊の本を出版しました。それは、『舞踊速記術』という、舞踊を記録するシステムを記した本でした。サン=レオンは、舞踊を客観的に記録することで、少しでも質の高いダンサーと作品を残し、バレエの人気が落ち込むのを防ごうと考えたのでした。
 皆さんの時代ですと、映像に撮って記録するということができるでしょうが、この頃にはまだそんな技術はありませんでした。
 サン=レオンは、彼の師匠だったパリ・オペラ座出身の名教師アルベールのアイディアと自分の音楽の知識を組み合わせて、それまでにはない、身体全体の動きが音楽とともに理解できるシステムを作りました。
 このような舞踊を記録する技術は、ろうそくの燭台のような目立たない存在ですが、感動的で華やかな舞踊表現の世界が、このような地道な仕事によって支えられていることをお伝えしたいと思いました。
 さて、サン=レオンは私と別れた後、ナポリ、リスボンなどヨーロッパ各地で仕事をしました。1859年にペローの後継者として、ついに念願のロシアのサンクトペテルブルク帝室劇場でバレエ・マスターの地位に就きます。彼は、パリ・オペラ座を去る頃からロシアでの仕事を夢見ていたようです。
 1869年までロシアで仕事をしながら、1863年から1870年に亡くなるまでパリ・オペラ座の振付家も兼務し、意欲的に創作活動を続けました。

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図版5 『コッペリア』の初演でスワニルダを踊ったボザッキ

1870年、サン=レオンは最後に輝かしい花火を自分の人生の終幕に向けて、パリ・オペラ座の舞台に打ち上げました。それが、有名な『コッペリア』です。主演のスワニルダは、サン=レオンにより抜擢されたジュゼッピーナ・ボザッキという16歳のイタリア人の少女でした。
彼女は、ミラノでバレエの基礎を学び、フランスでバレリーナとしての仕上げの指導を受け、ミラノ仕込みの高い技術とフランス的な優雅さを兼ね備えた希望の星でした。初演から二ヶ月後には、フランスはプロシアとの戦争に突入しました。パリも攻撃を受け、建築中のガルニエ宮殿は軍の食料貯蔵庫に使われました。主演したボザッキもこの戦争の最中、天然痘を患い17歳の誕生日に亡くなってしまいます。
 『コッペリア』は、明るく賑やかな「コメディ・バレエ」という印象があると思いますが、この作品の重要なテーマは、「和解と平和」だと思います。これは、サン=レオンがこの作品に込めた願いであることが台本からも想像できます。
 主役の男女の仲直りが意味するところは「和解」です。そして、第二幕(初演台本による)には「平和」を祝福する鐘が登場するのです。ほら、耳を澄ませてみてください。ドリーブの美しい音楽が聞こえてきそうではありませんか!
 次回は、ロマンティック・バレエのその後について、デンマークの若き舞姫ルシール・グラーンに登場してもらいましょう!それでは、私はこの辺で、チャオ〜!

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図版1:『ラ・ヴィヴァンディエール(従軍商の娘)』で
ルドヴァを踊るチェリートとサン=レオン
作者:Jules Bouvier
制作年:1844年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版2:ペロー振付『パリスの審判』を踊るサン=レオンと
左からファニー・チェリート、マリー・タリオーニ、ルシール・グラーン
作者:Jules Bouvier
出版年:1846年9月8日
所蔵:ヴィクトリ&アルバート博物館 ロンドン

図版3:パリ・オペラ座デビュー作『大理石の娘』を踊るチェリートとサン=レオン
作者:Alexandre Lacauchie (Lithographer)
出版年:1847年
所蔵:ニューヨーク公共図書館 N.Y.

図版4:サン=レオン振付『雛菊』を踊るチェリート
作者:Alexandre Lacauchie (Lithographer)
出版年:1851年
所蔵:ニューヨーク公共図書館 N.Y.

図版5:サン=レオン振付『コッペリア』初演でスワニルダを演じた
ジュゼッピーナ・ボザッキ
撮影者:不明
撮影年:1870年5月ころ
所蔵:不明 

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posted by 札幌芸術の森 バレエセミナー at 20:32| バレエ史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする