2014年07月21日

第9回

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図版1 ルシール・グラーンの肖像画

✫デンマークの舞姫ルシール・グラーン✫
 グーテンターク!コペンハーゲン生まれのデンマーク人バレリーナ、ルシール・グラーンと申します。デンマーク人なのにドイツ語でご挨拶とは何ごとかと思われましたか?これには、私の「国際的スターとしての秘密」が隠されているので、のちほどお話します。
 さて、このバレエ史コラムも早いもので夏休み前のまとめの時期となりました。ここで、第1回から第8回までの復習を兼ねて、ロマンティック・バレエがどのように後世に受け継がれていったかということを、私ルシール・グラーンがお話させていただきます。
 私は、デンマーク王立バレエ団初の国際的に活躍したバレリーナと言われています。コペンハーゲンでバレエの基礎を学び、王立劇場でダンサーとしてデビューしました。その後、パリ・オペラ座を皮切りに、故国デンマークを離れ、ヨーロッパ各地で踊る道を選びました。
 ロマンティック・バレエの時代を華やかに彩ったバレリーナや精力的に作品を提供しバレリーナの魅力を引き出した振付家の活動を見ても、一か所の劇場に留まることはなく、国境を超えてさまざまな劇場で働いていました。芸術家にとっては、いつの時代も「舞台は世界」なのです。

✫デンマークの舞姫から国際的スターへ✫
 私ルシール・グラーンは、コラム第1回で紹介されたバレリーナの競演『パ・ド・カトル』で初登場しています。タリオーニお姉さま以外の3人のバレリーナたちが踊る順番でもめた時に、一番最初にソロを踊ることを引き受けた最年少のバレリーナです。
 この『パ・ド・カトル』のプロデューサーだった、ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場の支配人ベンジャミン・ラムリーによりますと、「神秘的なタリオーニのスタイルと人間的なチェリートのスタイル、グリジの快活さ、ファニー・エルスラーの演技力を兼ね備えたバレリーナ」というのが私への評価でした。ロマンティック・バレエの名だたるバレリーナのあらゆる特質を兼ね備えた最強のバレリーナということになりますよね。その評価の割には、他のバレリーナほど目立たない印象だと思いますので、少し自己紹介させていただきます!
 私は、デンマークのコペンハーゲンに1819年6月30日に生まれました。カルロッタ・グリジと2日違いの年下です。先ほども申し上げましたが、コペンハーゲンの王立バレエ学校で基礎を学び、はじめの先生がピエール・ラルシェで、1829年にはラルシェ先生の作品(原振付は、マリーの父フィリッポ・タリオーニ)で舞台に立ちました。次に指導を受けたのが、後にデンマーク・バレエの基礎を確立するオーギュスト・ブルノンヴィルでした。私はブルノンヴィルの指導で、本格的にバレリーナへの道を歩むようになり、彼の作品の創造力のミューズ(女神)となったのです。
 1834年、まだ学生だった頃にブルノンヴィルは、私をパリに連れてゆきました。それは、ロマンティック・バレエの女王マリー・タリオーニの演じる『ラ・シルフィード』を私に見せるためでした。ブルノンヴィルは、パリ・オペラ座で踊っていた頃、マリーと良くパートナーを組んでいたそうです。ブルノンヴィルは、マリー・タリオーニの踊る『ラ・シルフィード』に感銘を受け、当時お気に入りの弟子だった私を主役にしてこの作品をデンマークで上演しようと考えていました。
 パリから戻り、私はコペンハーゲン王立劇場で1834年に公式にデビューし、バレエ団員となりました。1836年には、ブルノンヴィルの理想を実現するかのごとく『ラ・シルフィード(注1)』でタイトル・ロールを踊り大成功を収めました。1837年には王立劇場のプリンシパルに昇格し、私はコペンハーゲンで大人気のバレリーナとなりました。
 しかし、この頃から私は、少しずつ先生であるブルノンヴィルや王立劇場に対し不満を抱くようになりました。先生であるブルノンヴィルとは個人的な感情のもつれや芸術上の考え方の違いが出てきました。
 私は少しコペンハーゲンを離れたい気持ちになり、家族も私を支えてくれました。パリで指導を受けていたバレエの先生の計らいもあり、1838年にパリ・オペラ座でデビューすることができたのです。
 私はパリの観客にも受け入れられ、順風満帆なダンサー人生のスタートを切ったかのように感じられました。しかし、王立バレエ団は、契約期間中に他のバレエ団での活動を認めないということで、結局私は1839年にコペンハーゲンを離れ、国際的に活躍の場を求める道を歩むことになったのです。

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図版2 『ラ・シルフィード』を演じるグラーン

✫パリ・オペラ座でシルフィードを踊る✫
 1839年、私に大きなチャンスが訪れます。芸術の殿堂パリ・オペラ座で、『ラ・シルフィード』を踊ることになったのです。もともとシルフィードを踊る予定だったファニー・エルスラーが体調を崩し、突如舞い込んできたお話でした。予期せぬ出来事だったので、私は十分なリハーサルをせずにシルフィード役を踊ったのです。
 この役は、マリー・タリオーニとファニー・エルスラーという二大バレリーナによって、完全にイメージが出来上がっていました。その大役に挑んだ私の勇気を、かの劇作家テオフィル・ゴーチエも讃えてくれました。この年、私はファニー・エルスラーのライバルとしてパリ・オペラ座のソリストに迎えられ1840年まで踊ることになったのです。
 また、1839年から1847年にかけて、ゲスト・バレリーナとしてハンブルク、サンクト・ペテルグルク、ローマ、ヴェニス、ブリュッセルとヨーロッパ各地の舞台で踊りました。1840年パリ・オペラ座を離れ、次に私が向かったのはパリと並んでバレエ人気が高かったロンドンでした。

✫まさか!ロンドンでの苦戦✫
 ロンドンでは、師匠ブルノンヴィルの友人でバレエの魔術師ジュール・ペローが、バレエ芸術の普及に貢献していました。彼は、他のバレリーナやダンサーと同じように私の個性を引き出すべく、ドラマティックな表現を十分に発揮できる作品を提供してくれました。
 私がロンドンにやって来る前に、この時代の名だたるバレリーナたちがロンドンでの名声を獲得し、ペロー・マジックによって芸術家としての魅力に磨きをかけていったのです。
 その波に乗って、私もロンドンの観客に迎えられると思っていましたが、どうやら私はロンドンの観客の好みには合わなかったようで、新聞での批評も不本意なものでした。私自身もペローに作品のアイディアを提案し、ロンドンのお客様に受け入れられるように努力をしました。ある意味、運が悪かったのかもしれません。タリオーニ、エルスラー、グリジ、チェリートと鮮烈な個性を持ったバレリーナたちの後に、いくら私が優れた演技力と技術を兼ね備えたダンサーであっても、インパクトにかけたのでしょう。
 それでも、ペローは私の演技力を最大限に作品の中に反映してくれたのです。その中で、皆さんにご紹介したいのは美しいリトグラフ(版画)が残っている『エオリーヌ、あるいはは森の精』と『カタリーナ、あるいは盗賊の娘』です。

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図版3  ペロー振付『エオリーヌ』で森の精の姿のグラーン

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図版4  ペロー振付『エオリーヌ』でマズルカを踊るペロー(悪魔役)と森の精グラーン

 1845年、『エオリーヌ、もしくは森の精』は、あの有名な『パ・ド・カトル』の数ヶ月前に初演されました。主役のエオリーヌは、シレジア王子の父と木の妖精の母との間に生まれた森の妖精です。ペローは、この役の少女の二面性、つまり命ある人間と神秘的な森の精という二面性を表現するチャンスを私に与えてくれました。
 一方、『カタリーナ、あるいは盗賊の娘』は、盗賊団の女首領カタリーナと画家の恋人、そして盗賊団の部下との三角関係が主題でした。

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図版5 『カタリーナ』武装したカタリーナを演じるグラーン

 図版5は、カタリーナを演じる私の姿です。カタリーナの女性としての優しさと柔らかさをかもし出すたたずまいと盗賊団の首領として勇ましく武装した外見とのコントラストが良く描かれていています。ロンドンでは作品には恵まれたものの、バレリーナとしては苦戦を強いられました。それでも、次第にロンドンの観客も私を認めてくれるようになり、私は1848年までロンドンを拠点に踊っていました。
 そして、1848年に私はドイツ各地を巡る旅に出ました。私の人生の大きな転機が再び訪れます。ミュンヘンに家を持ち、デンマークとドイツとの戦争に翻弄されながらも、オーストリア人歌手と結婚し、私はドイツを第二の故郷とする道を選んだのです。
 
 次回は、デンマークのバレエ文化を改革し、ロマンティック・バレエの伝統を受け継いだオーギュスト・ブルノンヴィルについてお話いたします。お楽しみに!ごきげんよう。


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(注1)オーギュスト・ブルノンヴィル版『ラ・シルフィード』について
 1836年11月28日に、デンマークのコペンハーゲン王立劇場で初演された『ラ・シルフィード』は、オーギュスト・ブルノンヴィルが振り付けし、音楽をデンマーク人の作曲家ヘルマン・レーヴェンスキョルが担当しました。
 ブルノンヴィルとルシール・グラーンがパリ・オペラ座で見たものは、マリー・タリオーニの父フィリッポが台本と振付を担当し、ジャン・シュネゾフェール(資料によってはシュナイツホファー)が音楽を作曲したものでした。ブルノンヴィルは、フィリッポの台本を踏襲し、主役の青年ジェームズの踊りをかなり発展させた形で、自作の『ラ・シルフィード』を上演ました。最初は音楽もタリオーニ版のシュネゾフェールのものを使用したかったようですが経済的な理由で楽譜を入手できず、デンマークの作曲家レーヴェンスキョルに頼んだのです。
 第2回のコラムの【豆知識】にも書きましたが、『ラ・シルフィード』には主にパリ・オペラ座で上演されるフィリッポ・タリオーニ版とデンマーク王立バレエ団で上演されるオーギュスト・ブルノンヴィル版があります。この2種類の『ラ・シルフィード』は、現在も見る機会があるので見比べてみるのも楽しいですね。


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図版1 ルシール・グラーンの肖像画
作者:Henri Grévedon
出版年:1845年
所蔵:フランス国立図書館 パリ
 
図版2 パリ・オペラ座で『ラ・シルフィード』を演じるグラーン
作者:不明
出版年:1836年
所蔵:フランス国立図書館 パリ

図版3 ペロー振付『エオリーヌ』で森の妖精の姿のグラーン
作者:S.M.Joy(artist)、Edward Morton(lithographer)
出版年:1845年7月14日
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
 
図版4 ペロー振付『エオリーヌ』でマズルカをペロー(悪魔役)と踊る森の精グラーン
作者:John Brandard(artist)
出版年:1845年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
 
図版5 ペロー振付『カタリーナ』で武装したカタリーナを演じるグラーン
作者:John Brandard(artist)
出版年:1846年
所蔵:ヴィクトリ&アルバート博物館 ロンドン


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posted by 札幌芸術の森 バレエセミナー at 18:34| バレエ史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする