2014年06月27日

第8回

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図版1『ラ・ヴィヴァンディエール(従軍商の娘)』でルドヴァを踊るチェリートとサン=レオン 

☆イケメンな奇才!アルチュール・サン=レオン☆
 ごきげんいかがですか。ロンドンで人気絶頂のファニー・チェリートです!今回は、私の理想のパートナーとなるアルチュール・サン=レオンについてお話したいと思います。
 「サン=レオンって誰?」という感じでしょうか。皆さんの時代ですと、サン=レオンは『コッペリア』の振付家として有名な人です。
 第7回でお話しましたように、わたしはジュール・ペローのマジックのおかげで、ロンドンの観衆をすっかり魅了していました。年齢的にも20代半ばで、特に身体能力の面で申し分のない時期でした。
 ペローという振付家によって、私は欠点をも魅力に変えられ、バレリーナとしての命を吹き込んでもらいました。同時にペローは、パートナーとしても私を支えてくれました。ただ、ペローもダンサーとしては全盛期を過ぎていましたので、私には新たなエネルギーが必要なころでした。
 そんな中、フランス人の新星アルチュール・サン=レオンが1843年にハー・マジェスティーズ劇場に現れます。1843年から私たちの8年間に及ぶ、パートナーとしての活動が始まりました。グリジとペローよろしく、恋人同士にもなり(どちらかというと、サン=レオンが猛アタックして)、1845年にはパリで結婚しました。
 ペローも、彗星のごとく現れたサン=レオンの才能をすぐに見抜き、彼の能力を引き出すような作品を作り、自分の後継者としてサン=レオンを認めていたことでしょう。素晴らしい技術を持ち、振り付けの才能もあり、それに加えてヴァイオリンを巧みに演奏し作曲も手がける多才ぶりでした。
 サン=レオンがロンドン・デビューした当時の新聞タイムズは、彼の目を見張るピルエットや活気のあるみずみずしい踊りを古代ギリシャの英雄ヘラクレスの遊戯にたとえ、類まれな才能と彼を賞賛しました。

☆テクニシャン・コンビの化学反応☆
 サン・レオンの新聞評からも、彼が身体能力に恵まれたテクニックに強いダンサーであることが伺えます。これは私にも共通することで、サン・レオンはさしずめ「男版チェリート」といった存在でした。
 ロンドン・デビューして間もない有望株のサン=レオンと私は、1843年にペローが振り付けた『楽園の美女たち』というトルコを題材にした作品で、パ・ド・ドゥを踊りました。同年、その他の作品でも共演し、一気にパートナーとしての信頼関係を築いていきました。
 翌年1844年には、私はサン=レオンと一緒に振り付けもして、東欧を背景にした『ラ・ヴィヴァンディエール(従軍商の娘)』という一幕ものの作品で大成功を収めました。これは、皆さんの時代でも復元されてご覧になれる数少ないサン=レオンの作品の一つです。
 彼の創作の特徴は、さまざまな地域の民族舞踊をバレエの中に取り入れて、色彩豊かに仕上げるところでした。すでに他のロマンティック・バレエ時代の振付家たちにとっても、民族舞踊は非常に重要な要素の一つでしたが、サン=レオンはさまざまな舞踊の特色を活かし、バレエの世界に新風を吹き込みました。この伝統は、のちのマリウス・プティパにも踏襲されていきます。
 図版1をご覧ください。これは、『ラ・ヴィヴァンディエール』で、私とサン=レオンが踊った「ルドヴァ」と呼ばれるボヘミア地方発祥のポルカです。恋人たちが、結婚できる喜びをステップで語り合うように表現した踊りで、私たち二人の高度なテクニックと軽やかでしなやかな動きを十分に発揮した踊りでした。

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図版2『パリスの審判』を踊るサン=レオン、チェリート、タリオーニ、グラーン

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図版3パリ・オペラ座デビュー作品『大理石の娘』を踊るチェリートとサン=レオン

☆芸術の殿堂パリ・オペラ座へ☆
 1843年から1847年まではロンドンを拠点に、その後1847年には、パリ・オペラ座を拠点に私たちは活動をすることになります。
 ロンドン時代とパリ時代では、徐々に二人の関係も変わってゆきました。ロンドンでは、私はすでに国際的なスターで、それをサン=レオンが後から追いかけるという感じでした。
 ただ、彼の活躍ぶりには眼を見張るものがありました。魔術師ペローの魔法は、サン=レオンにもかけられました。
 図版2をご覧いただくと、これもペローの1846年の作品です。サン=レオンが私とタリオーニお姉さま、そしてデンマークの期待の新人ルシール・グラーンという三人の超花形バレリーナたちと対等に踊っているではありませんか。
 私たちは、ロンドンで大成功を収めパリに向かいました。この頃のパリ・オペラ座が興味を持っていたのは、私より振付家サン=レオンでした。私は30歳になり、機敏な身のこなしや女性的な魅力は、少しずつ下り坂にさしかかっていました。
 パリ・オペラ座は、往年のタリオーニVSファニー・エルスラーのライバル対決やカルロッタ・グリジが『ジゼル』で華々しくデビューした頃に比べると、だんだんとバレエの活気がなくなりつつありました。
 サン=レオンは、自らも創作しましたが、アレンジの才能に恵まれていました。その分仕事が早く、作品を多く仕上げることができたのです。私たちのパリ・デビュー作『大理石の娘(図版3)』も、もともとペローが1842年に振り付けた『アルマ、もしくは火の娘』のリメイクで、これは私の魅力を最大限に披露するにはもってこいの作品でした。
 1848年には、『ラ・ヴィヴァンディエール』をパリで再演しました。お得意のピルエットや軽やかな足さばきといった高度な技術と東欧の空気を運ぶエネルギッシュな踊りで、私たちはパリでも大喝采を浴びたのです。
 サン=レオンにとって、才能を余すことなく発揮した代表作は、1849年の『悪魔のヴァイオリン』でした。自ら作曲しヴァイオリンを奏で、そして踊ったのです。彼のパリ・オペラ座での地位は安定してゆきました。1851年の『雛菊(図版4)』は私への最後の振付作品となり、私たちの私的な関係も幕を閉じました。
 私はパリ・オペラ座に1854年まで残り、作家テオフィル・ゴーチエが台本を書いた『ジェンマ』という、故郷イタリアを舞台にした大作を手がけました。パリ・オペラ座の後は、バレエ人気が下り坂のロンドンに戻り、1856年にはモスクワでアレクサンドル二世の即位祝賀行事に参加し、翌年40歳で引退しました。

図版4チェリート 雛菊 index.jpg
図版4『雛菊』を踊るチェリート

☆舞踊記録システムの考案☆
 一方、サン=レオンは契約上の問題で、1852年にオペラ座を去ります。この年に、彼は一冊の本を出版しました。それは、『舞踊速記術』という、舞踊を記録するシステムを記した本でした。サン=レオンは、舞踊を客観的に記録することで、少しでも質の高いダンサーと作品を残し、バレエの人気が落ち込むのを防ごうと考えたのでした。
 皆さんの時代ですと、映像に撮って記録するということができるでしょうが、この頃にはまだそんな技術はありませんでした。
 サン=レオンは、彼の師匠だったパリ・オペラ座出身の名教師アルベールのアイディアと自分の音楽の知識を組み合わせて、それまでにはない、身体全体の動きが音楽とともに理解できるシステムを作りました。
 このような舞踊を記録する技術は、ろうそくの燭台のような目立たない存在ですが、感動的で華やかな舞踊表現の世界が、このような地道な仕事によって支えられていることをお伝えしたいと思いました。
 さて、サン=レオンは私と別れた後、ナポリ、リスボンなどヨーロッパ各地で仕事をしました。1859年にペローの後継者として、ついに念願のロシアのサンクトペテルブルク帝室劇場でバレエ・マスターの地位に就きます。彼は、パリ・オペラ座を去る頃からロシアでの仕事を夢見ていたようです。
 1869年までロシアで仕事をしながら、1863年から1870年に亡くなるまでパリ・オペラ座の振付家も兼務し、意欲的に創作活動を続けました。

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図版5 『コッペリア』の初演でスワニルダを踊ったボザッキ

1870年、サン=レオンは最後に輝かしい花火を自分の人生の終幕に向けて、パリ・オペラ座の舞台に打ち上げました。それが、有名な『コッペリア』です。主演のスワニルダは、サン=レオンにより抜擢されたジュゼッピーナ・ボザッキという16歳のイタリア人の少女でした。
彼女は、ミラノでバレエの基礎を学び、フランスでバレリーナとしての仕上げの指導を受け、ミラノ仕込みの高い技術とフランス的な優雅さを兼ね備えた希望の星でした。初演から二ヶ月後には、フランスはプロシアとの戦争に突入しました。パリも攻撃を受け、建築中のガルニエ宮殿は軍の食料貯蔵庫に使われました。主演したボザッキもこの戦争の最中、天然痘を患い17歳の誕生日に亡くなってしまいます。
 『コッペリア』は、明るく賑やかな「コメディ・バレエ」という印象があると思いますが、この作品の重要なテーマは、「和解と平和」だと思います。これは、サン=レオンがこの作品に込めた願いであることが台本からも想像できます。
 主役の男女の仲直りが意味するところは「和解」です。そして、第二幕(初演台本による)には「平和」を祝福する鐘が登場するのです。ほら、耳を澄ませてみてください。ドリーブの美しい音楽が聞こえてきそうではありませんか!
 次回は、ロマンティック・バレエのその後について、デンマークの若き舞姫ルシール・グラーンに登場してもらいましょう!それでは、私はこの辺で、チャオ〜!

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図版1:『ラ・ヴィヴァンディエール(従軍商の娘)』で
ルドヴァを踊るチェリートとサン=レオン
作者:Jules Bouvier
制作年:1844年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版2:ペロー振付『パリスの審判』を踊るサン=レオンと
左からファニー・チェリート、マリー・タリオーニ、ルシール・グラーン
作者:Jules Bouvier
出版年:1846年9月8日
所蔵:ヴィクトリ&アルバート博物館 ロンドン

図版3:パリ・オペラ座デビュー作『大理石の娘』を踊るチェリートとサン=レオン
作者:Alexandre Lacauchie (Lithographer)
出版年:1847年
所蔵:ニューヨーク公共図書館 N.Y.

図版4:サン=レオン振付『雛菊』を踊るチェリート
作者:Alexandre Lacauchie (Lithographer)
出版年:1851年
所蔵:ニューヨーク公共図書館 N.Y.

図版5:サン=レオン振付『コッペリア』初演でスワニルダを演じた
ジュゼッピーナ・ボザッキ
撮影者:不明
撮影年:1870年5月ころ
所蔵:不明 

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posted by 札幌芸術の森 バレエセミナー at 20:32| バレエ史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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