2014年05月28日

第6回

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図版1: 『ジゼル』初演(1841年)で農夫ロイス(アルブレヒト)を演じるリュシアン・プティパ

☆エレガントな貴公子リュシアン・プティパ☆ 
 皆さん、ごきげんいかがですか!またまた、カルロッタ・グリジです。今回は、私がペロー以外で初めて踊ったパートナー、リュシアン・プティパについてお話したいと思います。彼は、バレエ『ジゼル』の初代シレジア公爵アルブレヒト(農夫名ロイス)を演じ、ロマンティック・バレエ時代を代表する貴族的な存在感を持った男性ダンサーの一人です。
 この「貴族的な存在感」というのは、いつの時代も主役の男性ダンサーには非常に重要です。主役の男性ダンサーを「ダンスール・ノーブル」と呼ぶのを聞いたことがありますよね。「ノーブル」という言葉には、「貴族的な」とか「品格のある」という意味があります。リュシアンは、オペラ座でその主役としての役割を様々な作品で果たしたのです。
 私は、1841年のパリ・オペラ座デビュー以来、『ジゼル』、『ラ・ペリ』、『パキータ』などで、リュシアンと一緒に踊りました。私が、パリ・オペラ座で長年バレリーナとしての地位を維持できたのも、リュシアンという素晴らしいパートナーの支えがあったからと言えるかもしれません。
 この時代、男性ダンサーに対する風当たりが強く、文章での記録を探すのは一苦労です。それでも、数少ない証言をたどってリュシアン・プティパがどのようなダンサーだったのか、ということに迫ってみましょう。
 ではここで、ロマンティック・バレエの語り部テオフィル・ゴーチエに登場してもらいます。私の熱狂的なファンで、この時代の証言者であり、彼が残した言葉が一番の有力情報です。これは、ペローのところでもお話しましたが、ゴーチエは基本的には男性ダンサーのことは褒めませんし、余程でなければ書き残しもしないでしょう。
 その彼が、リュシアン・プティパについて書いているのでお伝えしたいと思います(注1)。

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図版2: 幻想バレエ『ラ・ペリ』のアクメを演じるリュシアン・プティパ

 まずは、1841年のバレエ『ジゼル』でのアルブレヒトについて、ゴーチエは次のように書いています。
 「(リュシアン・)プティパは品よく情熱的で感銘を与えた。これほど楽しませてくれて、歓迎された男性ダンサーは久しく存在しなかった」。
 次に、1843年の幻想バレエ『ラ・ペリ』のハレムの主人アクメについてです。
 「他の多くの場合もそうであったが、ここでもプティパの手柄を正当に評価しなければならない。相手役のバレリーナに彼はなんと献身的に仕えることか!いかに相手の身を案じ、いかに彼女を支えることか!彼は自分に人の目を引きつけようとはしない。自分だけのために踊らない。だからこそ、時にはいわれのない不評が男性ダンサーにまといつく今日でも、プティパは観客に歓迎されている。観衆が男性ダンサーを嫌悪するに至ったのは、わざとらしい品の良さ、うさん臭い嫌な気取りのためだが、彼にはそれがない。彼はきわめて明敏なマイムであって、常に舞台を把握し、ごく小さな部分も疎かにしない。だから、彼は文句なしの成功を収めた」。
 皆さんは、このゴーチエの言葉からリュシアンの舞台での様子をどのように想像されたでしょう。お分かりとは思いますが、相手役のバレリーナというのは私のことです。この時代の男性ダンサーに求められた役割も理解できますし、何がバレエを踊るにあたり重要だったかということも読み取れると思います。この時代のバレエでは、「演じること」が重要だったと考えられます。ゴーチエが伝える限りでは、リュシアンは踊りの部分よりも演技の部分での評価が高いように思います。

☆リュシアン・プティパの生い立ち☆
 少しリュシアン・プティパのイメージが湧いてきたでしょうか。ここで、彼の生い立ちをお話します。
 父は、ジャン=アントワーヌ・プティパというダンサーでバレエ教師、母はヴィクトリーヌ・グラッソーといい、かなり名声を博した悲劇女優でした。弟は、後にロシアでチャイコフスキーとバレエを一緒に作った有名なマリウスです。プティパ兄弟は芸能一家に育ち、生まれ落ちてからほとんど舞台とともに生きていたと言えるでしょう。
 リュシアンは、1815年にマルセイユで生まれました。1819年には、父がバレエ・マスターとしてブリュッセルのモネ劇場で働くことになり、一家で移り住みます。この地で、リュシアンは父の指導のもとバレエを学びました。
 彼の成長はめざましく、父はパリから来た有名な歌手の公演に合わせて、リュシアンのデビューを準備しました。その公演が大成功を収め、その時に観客として見ていたハーグの王立劇場の監督から第一舞踊手としての契約をもらったのです。三ヶ月間ハーグで踊った後、ボルドーの劇場と契約を結びました。ボルドーでも人気を博し、その名声はパリのファニー・エルスラーなどのバレリーナたちの耳にも届き、リュシアンはパリに上京することとなりました。
 彼の名前はすでにパリで広まっていて、直ちにオペラ座と第一舞踊手としての契約を結びます。デビューは、私より一足先で1840年6月10日に、ファニー・エルスラー主演の『ラ・シルフィード』でエルスラーの相手役ジェームズを踊りました。
 この成功を皮切りに、リュシアンのオペラ座での栄光の時代が続きます。私とリュシアンは1840年代のオペラ座を支えた看板スターだったと言えるでしょう。
 図版3から図版5までは、私がリュシアンと共演した作品です。図版3を見てください。これは、私が1841年2月のパリ・オペラ座でデビューしたドニゼッティのオペラ『ラ・ファヴォリータ』のバレエ・シーンで、リュシアンと初共演した時の様子です。
 ペロー以外のパートナーと踊るのが初めてだったので、その不安げな様子は批評にも書かれたほどでした。でも、同じ年の6月には、リュシアンと『ジゼル』を踊ることになり、歴史的な大成功を収めたのです。リュシアンと共演したいくつかの版画を見て頂いても、二人の信頼関係ができて行く様子を感じ取れるのではないでしょうか。

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図版3: 『ラ・ファヴォリータ』で共演するリュシアンとグリジ

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図版4: 幻想バレエ『ラ・ペリ』第二幕を踊るリュシアンとグリジ

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図版5: 『パキータ』を踊るリュシアンとグリジ

☆オペラのバレエ・シーンの振付家☆

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図版6: リュシアン・プティパ振付『シャクンタラ』のシャクンタラの衣装

 最後に、リュシアンの業績をもう一つお話します。彼は、振付家としての顔も持ちあわせていました。最初に振り付けたのは1853年で、ルイ・ニデルメイェールのオペラ『フロンド党』のディヴェルティスマン(余興の踊り)でした。初めてのバレエ作品は、ゴーチエが台本を担当した1858年の『シャクンタラ』で、この頃流行りの異国趣味でインドの神話の世界を題材にした二幕仕立てのバレエ・パントマイムでした。図版6は主役のシャクンタラの衣装で、皆さんにお馴染みのバレエ『バヤデール』の雰囲気を感じさせます。
 バレエの振付の才能はどうやら弟のマリウスのほうが上だったようですが、リュシアンはオペラの中のバレエ・シーンの振付で活躍しました。ヴァーグナーの『タンホイザー』の「バッカナール」、他にもヴェルディやロッシーニのオペラでバレエ・シーンを手がけたと言われています。
 1860年からは主席バレエ・マスターとして振付やダンサーの指導にも当たりました。彼の教え子の一人が、第5回に登場したルイ・メラントです。
 1868年に狩りで怪我をしたことで、リュシアンは現役を退き、その後は1872年から古巣のブリュッセルのコンセルバトワールの監督を務めました(〜1875年まで)。
 1880年にパリ・オペラ座に戻りパントマイムを教え、1882年には最後の作品『ナムナ』をオペラ座で振り付けました。1898年、その高貴な存在感に相応しく、太陽王ルイ14世が栄華を極めた地ヴェルサイユで天に旅立ちました。
 リュシアンの「エレガントな存在感」は、弟子のルイ・メラントに受け継がれ、パリ・オペラ座は、振付家のジョセフ・マジリエや私のライバル、ファニー・チェリートとその夫君アルチュール・サン=レオンが盛り上げて行くことになります。
 それでは、私はそろそろロシアに向かうので、ファニー・チェリートに続きをお任せしたいと思います。チェリートとは、『パ・ド・カトル』の時に踊る順番でもめましたが、彼女もパリ、ロンドンを中心に人気のあったバレリーナの一人ですし、振付も手がけしました。サン=レオンは、皆さんにお馴染みの『コッペリア』の振付家です。
 どうぞ、チェリートとサン=レオンのことをよろしくお願いたします!

注1: 渡辺守章編『舞踊評論』1994年 新書館 「テオフィル・ゴーチエ」井村実名子訳から引用

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【豆知識】20世紀初頭までオペラとバレエはいつも一緒の兄弟だった!

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図版7: 『ジゼル』初演の時のポスター(1841年6月28日)

 現在は、オペラとバレエは別々のプログラムになっていて、一夜のプログラムでオペラとバレエを両方見ることはあまりありませんね。
 実は、バレエを見るためだけに劇場に行くという習慣は、あまり古くありません。20世紀のはじめまでは、オペラとバレエは一緒に見るのがヨーロッパやロシアでは普通のことで、いつも一緒の兄弟のような存在でした。
 それを証明するものとして、図版7を見てください。バレエ(当時はバレエ・パントマイム)『ジゼル』が初演された時のポスターです。GISELLEと大きな文字で見えますね。その下にLES WILISとあって、その下にMOÏSEという文字がわかりますか。このMOÏSEは、ロッシーニのオペラ『モーセ』で、この頃は第一部がオペラ、第二部がバレエになっていて、観客はゆったりと劇場で時間を過ごし、舞台鑑賞だけではなく、他の観客やバレリーナと歓談したのです。バレエが第二部なのは、この頃の常識だったようです。バレエのお客さんが時間通りには来ないことを想定していたとのことです。

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図版1: 『ジゼル』第一幕で農夫ロイスを演じるリュシアン
出版社: Martinet, Paris
出版年: 1841年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版2: 幻想バレエ『ラ・ペリ』でアクメを演じるリュシアン
出版社: Martinet, Paris
出版年: 1843年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版3: オペラ『ラ・ファヴォリータ』(1841年)で、バレエ・シーンを踊るリュシアンとグリジ
出版者: Martinet, Paris
出版社: 1841年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版4: バレエ『パキータ』でパ・ド・ドゥを踊るリュシアンとグリジ
出版社: Martinet, Paris
出版年: 1846年ころ
所蔵: ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン

図版5: 幻想バレエ『ラ・ペリ』第二幕を踊るリュシアンとグリジ
作者: 不明
制作年: 1843年
所蔵: Musèe des beaux-arts, Paris

図版6: バレエ・パントマイム『シャクンタラ』のシャクンタラの衣装
作者: Alfred Albert
出版年: 1858年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ

図版7: 『ジゼル』初演のポスター
制作者: パリ・オペラ座
制作年: 1841年
所蔵: オペラ座付属図書館 パリ


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