図版1:『ジゼル』第一幕を演じるカルロッタ・グリジ
☆イタリア人バレリーナが大活躍☆
はじめまして!マリー・タリオーニからロマンティック・バレエの紹介を引き継ぎましたカルロッタ・グリジです。ちょっとぽっちゃりしていますがバレリーナです。歌も歌います。私は、皆さんの時代でも全世界でご覧いただいている、バレエ『ジゼル』の初演で主役を務めました。
少し自己紹介させていただきますと、私は、1819年生まれのイタリア人です。早い時期からダンスの才能を感じさせたようで、両親がミラノ・スカラ座バレエ学校(当時、高い水準の舞踊教育を行い、多くの著名な舞踊家を輩出)に入れてくれました。
そこで、フランス人教師のクロード・ギエに指導を受け、1829年にはスカラ座のコールド・バレエとして踊っていました。あまりに早く成功を収めたために、踊りすぎて体調を崩し、踊りを一時中断しなくてはなりませんでした。
従姉にジュリア・グリジというオペラ歌手がおりまして、家系的に歌の才能にも恵まれていたので、歌の仕事の依頼もありました。しかし、踊りへの思いを捨てきれず、健康を取り戻してから、再び踊り手としての活動を始めました。
イタリア人興行師と契約し、イタリア各地を巡業中に運命の出会いが訪れます。1834年からナポリで踊っていた時、フランス人のダンサー兼振付家のジュール・ペローの目に止まったのです。ここで私は真の指導者と出会い、1836年からマダム・ペローと名乗り(1842年まで)、ロンドン、パリ、ウィーンなどで踊り、公私共にペローのパートナーとしての日々が始まりました。
1840年には、民族舞踊でパリの観衆の注目を集めました。そして、ペローは私のために、1841年にパリ・オペラ座初演された、ロマンティック・バレエの最高傑作である『ジゼル』を振り付け、大成功を収めたのです。その成功のおかげで、私はパリ・オペラ座での地位を確立し、1849年まで在籍しました。そして、1842年から1851年までの間、定期的にロンドンでも活動し、人気を博しました。
その後、マリー・タリオーニやファニー・エルスラーに続き、1850年にサンクト・ペテルブルクで『ジゼル』を踊ってロシアデビューを果たし、帝室劇場でバレリーナとして1853年まで踊り、翌年引退しました。

図版2:「オペラ・ポルカ」を踊るカルロッタ・グリジとジュール・ペロー
☆不朽の名作『ジゼル』☆
さて、いま皆さんにご覧いただいている私の姿は、第一幕の村娘の姿です。衣装の胴着は茶色で、スカートは黄色の生地です。「え?」と思われた方も多いでしょうか。おなじみなのは、濃いブルーの胴着に水色のスカートかもしれませんね。衣装の色や形も演出家の考え方や国の違いや時代によって、ずいぶんと変わっているようです。あと、この頃のオペラ座の場合、節約のために、他の作品の衣装を着回したりもしていたようです。
この『ジゼル』ほど長い間、バレエ作品として多くの国で上演され続けているものはないでしょう。この作品は、『ラ・シルフィード』と並んで世界最高長寿のバレエ作品の一つであり、上演回数も最多に近いのではないでしょうか。
なぜ、『ジゼル』という作品が、これほどまでに人々に愛され続けているでしょう。それは、この作品が「生と死」という人類共通のテーマを扱っているからかもしれません。第一幕が「生」の世界で、第二幕が「死」の世界。シンプルだけど、全人類に通じるテーマです。そして、「男女の愛」、「親子の愛」、「裏切り」、「絶望」など、人間が生きていく上で誰しもが経験することを、音楽と踊りと芝居とが一体となった舞踊劇として表現されているからなのです。

図版3:『ジゼル』第ニ幕のカルロッタ・グリジ

図版4:『ジゼル』第一幕のカルロッタ・グリジとリュシアン・プティパ
☆『ジゼル』の初演を支えた人々☆
バレエは、舞踊でつづられる物語ですが、演劇同様にロマンティック・バレエの作品には、すべてに台本があります。この時代でバレエ史上有名な作家の一人は、テオフィル・ゴーチエでしょう。台本も書きましたし、評論も書いて、バレエのことを多くの人に知らしめた人物の一人です。彼の批評には少し主観も入り、好みのバレリーナとそうではないバレリーナがいたようで、どちらかというとフランス人のバレリーナは痩せていて(注1)、あまりお好みではなかったようです。
ゴーチエは、私の熱烈なファンで、私のためにこの『ジゼル』の台本を書いてくれました。バレエの台本を書くのは初めてだったので、ゴーチエは著名な歌劇台本作家のド・サン=ジョルジュに協力を求め、実現しました。私のことを、タリオーニとエルスラーと肩を並べるバレリーナと評価し、他にも私の主演作品『ラ・ペリ』の台本を手がけました。これらの名作を初演できたおかげで、私は後世に名を残すこととなりました。
しかしながら、皆さんも良くご存じのことでしょうが、バレエは、バレリーナ一人で成り立つものではありません。作曲家、振付家、台本作家、衣装や美術を作る人達、そして、主役を支える舞踊家たち、劇場を運営してお金のことなどを考えてくれる人たち、そして、バレエのことを文章にして多くの人に伝える人たちなどが、関係しあって成り立つものです。
『ジゼル』の初演の振付を担当したのは、表向きはジャン・コラリというオペラ座所属の振付家ですが、彼はマイムの部分を主に手がけ、ジゼルの踊りのほとんどは、私の才能を見出し、世に送り出してくれたジュール・ペローだと言われています。
そして、アルブレヒトとして、私のパートナーを務めてくれたのがリュシアン・プティパです。皆さんが良くご存知のマリウス・プティパのお兄さんで、ロマンティック・バレエ時代のパリ・オペラ座で活躍し、非常に評価の高い男性舞踊手の一人でした。
そして、カルロッタ・グリジ、フォルステール嬢と並び、ゴーチエによってオペラ座の<美の三女神>の一人と言われたアデール・デュミラートルが、第二幕でミルタを演じました。アドルフ・アダンの音楽の調べとともに、演劇的にも完成度の高いバレエ『ジゼル』がここに誕生したのです。
それでは、次回は、私以外にこの不朽の名作『ジゼル』に関わった人たちを、もっと詳しくご紹介したいと思います。どうぞお楽しみに☆彡
【注釈1】
フランス人の痩せているバレリーナに対して、新聞「ル・フィガロ」でも、「『野菜のバレエ』でアスパラガスの役を踊れば大変結構だろう」と評されていて、バレリーナに求められる「美しさ」が今と違うことが伺えます。
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【豆知識】<情報化>とバレエの普及
ロマンティック・バレエの時代に、バレエが商業化、大衆化したと言われています。理由には、いくつかあります。一つは、テオフィル・ゴーチエやジュール・ジャナンといった作家たちが、バレエの公演評を書いたことがあげられるでしょう。そして、その書いた人の多くが男性だったこともあり、特に女性のバレリーナのことを賛美し、書き残したことで、「ロマンティック・バレエ=バレリーナの時代」という印象が強く残ったのかもしれません。
また、今の時代のブロマイドのように、バレリーナたちのリトグラフ(版画)がたくさん刷られ、中産階級の人々の間で流行し、楽譜の表紙にも使われました。
リトグラフのビジネスは大盛況だったようで、現在と変わらず、有名人の私生活やファッションに対する興味、関心が高かったことが伺えます。文豪バルザックの著作など読んでみると、この時代のパリの人々の生活の様子を知ることができます。
大型百貨店もでき、消費活動が特に女性の間で活発になり、新聞や雑誌も発達し、情報の広がり方も早くなってゆく時代でもありました。
図版1:『ジゼル』第一幕のカルロッタ・グリジ
作者:Alfred Edward Chalon, H.Robinson
出版年:1844年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
図版2:楽譜の表紙に描かれた「オペラ・ポルカ」を踊るジュール・ペローとカルロッタ・グリジ
作者:Nichokas Hanhart
出版年:1830−40年
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
図版3:『ジゼル』第ニ幕 ウィリに扮するカルロッタ・グリジ
作者:Lacauchie, Rigo Frères
出版年:1840年ころ
所蔵:ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン
図版4:『ジゼル』第一幕のカルロッタ・グリジとリュシアン・プティパ
作者:Victor Coindre
出版年:1841年ころ
所蔵:Harvard Theatre Collection U.S.A.
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